西暦2054年5月20日。
午前9時。
シーライオンは専用ドックから浮上して、日高基地上空に静止して待機していました。空は雲ひとつない晴天です。風もごく弱く、絶好のコンディションです。
「宇宙に出れば天気なんて関係ないんだよね?」
小杉さんが素朴な質問をしました。
「そうね。でも、前に乗っていた観光シャトルは天気が悪い時は打ち上げを延期してたわ。」
ライラさんが教えてくれました。
確かに、ノースポールプロジェクト以前のロケットの打ち上げでは、天気が悪い場合は打ち上げスケジュールは延期されていました。これまで使われてきたロケットは非常に巨大で、しかも繊細なシステムだったのです。
例えば風。
風が強いとロケットの進路が逸れてしまう可能性もあります。また、風に煽られて倒れてしまうという事故もあったようです。
そして雷。
ロケットには様々な電子機器も搭載されています。雷の影響でそれらが影響を受ければ誤動作の恐れもあります。
しかし、打ち上げ日程をずらすことが出来ない場合もあります。例えば火星探査機のように、惑星間を飛行する場合には、地球と、目的地の惑星の位置関係が重要になります。地球も、他の惑星も常に動いていますから、タイミングがずれると予定していた軌道では辿り着けなくなってしまうのです。
「シーライオンもノースポールも、超大型の台風の中でも問題なく飛行することが出来るはずですから。」
鵜の木さんはシートに深く腰掛けて両手を頭の後ろに回してリラックスしていました。
「でも、きっと、天気が良い方が飛んでいて気持ちいいですよね。」
鵜の木さんが小杉さんとライラさんに教えてくれました。やはり最後は人間の気持ちなのです。
その時、私の席で着信音が鳴りました。基地からの連絡でした。私は川崎さんに伝えると通信をメインディスプレイにつなぎました。
「ニコラです。地上側の準備完了です。」
今回は、シーライオンがいよいよ宇宙に出るため、その追跡も規模がだいぶ大がかりになるんです。
「了解した。では、出発するよ。」
「航海の安全をお祈りしています。」
「ありがとう。」
通信が終わると川崎さんはシートから立ち上がって胸の前で腕を組みました。仁王立ちです。凜として指示しました。
「シーライオン、発進。」
小杉さんが復唱します。
「了解。シーライオン、発進します。」
ライラさん、足下のペダルを踏み込みました。シーライオンは音もなく静かに、しかし、力強く加速し始めました。
「上昇を開始します。」
ライラさんが両手で握る操縦桿を手前に引き寄せました。シーライオンは艦首を上げて上昇を始めました。日高基地と、北海道の大地はすぐに遙か後方へと去って行きました。青空の中を上昇していく真っ白い船体のシーライオン。高度をどんどん上げていきます。
「高度50を越えました。」
単位はKmです。つまり、高度50Kmです。富士山もエベレストも、もう遙かに下ですが、ここはまだ地上です。国際的な定義では高度100Kmより上が宇宙と決められているのです。ちなみに、宇宙空間から地球に戻ってくる場合には、高度120Kmの辺りから大気との摩擦熱で機体が炎に包まれます。アニメや映画にも良く搭乗する『大気圏突入』ですね。地上で直線距離で例えると120Kmは、東京駅から、静岡県の冨士川の河口辺りの距離にあたります。以外と近いような気もしますが、この距離から飛び出したり、逆に突入するために、人類は並々ならぬ苦労をしていたのです。
「まもなく、高度100を越えます。」
小杉さん、そう報告すると一瞬視線を上げました。
「あっ、空の色が変わっていく。」
ほんとです。私も初めて見ます。鵜の木さんも興味深そうに窓の外を見つめています。空が段々と暗くなっているんです。
「そうね、100Kmを越えると、周りはもう真っ暗ね。地上が青く輝いて見えるの。」
「へー。」
そう言っている間にも周囲はどんどん暗くなっています。青空はどんどん下の方へと遠ざかっています。
「すごいや。これが宇宙なのか。」
端末を確認したライラさんが報告しました。
「高度100を越えたわ。」
そして、小杉さんに向かって笑顔で言いました。
「ようこそ、宇宙へ。」
小杉さん、一瞬の沈黙の後、少々興奮気味に言いました。
「すごい、すごいよ。宇宙に来たんだ!」
シーライオンと私達は、ついに宇宙に足を踏み入れたのです。いえ、踏み出したのです。
「それにしても、」
川崎さんが何か話し始めました。
「どうかしましたか?」
鵜の木さんが尋ねました。
「いや、余りにも呆気なかったのでな。」
「呆気ない、ですか?」
鵜の木さんも私も、川崎さんの言おうとしている意味がわかりませんでした。
「はい、私もそう思いました。」
ライラさんには、呆気ない、という川崎さんの言葉の意味が分かったようです。
「うん、ライラは分かるはずだ。」
「はい。」
鵜の木さんと私は顔を見合わせました。小杉さんも不思議そうな顔でこちらを見ています。
「地上から大気圏を抜けて、衛星軌道まで来るというのは、これまでは、とてつもない難事業だったのだ。」
なるほど、なんとなく分かってきました。
「巨大なロケットを作って、大量の燃料を燃焼させて、尋常でない音と振動とGに耐えて、やっとの思いで衛星軌道に辿り着くのだ。もちろん、天文学的な費用も必要だ。しかも、ロケットは使い捨てだ。まあ、再利用する試みもあったが。」
その通りです。宇宙開発はとにかく金食い虫だったのです。ロケットを一度作ればそれで済むというものではなかったのです。なので、実質的には大きな経済力を持つアメリカとロシア、当時のソビエトの独壇場だったのです。良い意味か悪い意味かは分かりませんが、この2国の競争があったからこそアポロ計画も実行されたと言って良いのではないでしょうか。
「私のいた会社でも打ち上げ用のロケットは使い捨てでしたね。最初は燃焼を終えたロケットをパラシュートで海に落下させて回収していたらしいんですが、再整備するのも費用がかかるし、耐久性も問題になるし、だったら使い捨ての方が信頼性を高くできるって結論になったらしいですね。一般のお客さんを乗せてましたから。安全な飛行が最優先、というか、絶対でした。」
そうですね。商用で一般のお客さんを乗せての宇宙飛行となれば、やはり、安全が最優先となるでしょう。
かつて活躍したスペースシャトルも、その、安全性を維持するためのコストや手間がかかりすぎると言う理由で退役させることになったと聞いています。
再び、川崎さんが話し始めました。
「それに比べて、シーライオンもノースポールもは再利用どころか、地上と宇宙の間を何度でも自由に往復できるという前提だ。ここまで来た感じでも船のダメージはゼロに違いない。何度でも使用可能で何の苦労もなく、地上と宇宙を行き来できる時代がついに来たのだ。」
川崎さん、普段は寡黙なのに珍しく熱弁を振るってます。でも、それこそが私や鵜の木さんや、他の大勢のエンジニアの人達が夢見ていた宇宙船なんです。自由に宇宙を旅することが出来る宇宙船。ついに産声を上げたのです。
シーライオンは、高度500Kmに達すると、地球を巡る周回軌道に入りました。月に直行することもできるのですが、準備しないといけないことがあるのと、念のため船のシステムの点検をすることにしたのです。
「まあ、問題ないと思うが、念のためだ。何しろ我々はまだ初心者もいいところだからな。」
川崎さんは自嘲気味に言いました。そして。
「まずは、バリアシステムだな。準備は出来ているか?」
バリアシステム。文字通り『バリア』です。しかも、VMエネルギーを応用して開発した現在世界のオリジナル装備なのです。『未来の宇宙船』にも搭載されていません。比較的簡単に開発出来たので、なぜ300年後の世界で実現出来なかったのか疑問ですが、ひとまず、現在の私達の作り出したオリジナルシステムなのです。シーライオンとノースポールはもちろん、これから建造される宇宙船には標準装備される予定になっています。シーライオンよりももっと小型の作業船については未定ですが。
「準備完了しています。」
私はバリアシステムの監視用のコンソール画面を見ながら答えました。シーライオンには合計8機のバリア・フィールド・ジェネレータが装備されています。上甲板の前寄りの左右両舷、後ろ寄りの左右両舷、そしてこれと対象に艦底部にも4機設置されています。これらのジェネレータからシーライオン全体を包むようにバリア・フィールドを発生させるのです。ちなみに、8機のジェネレータのうち4機が正常ならばシーライオン全体を包むことが可能です。
「よし、バリアシステム展開。」
「了解です。」
私は画面上の起動ボタンを押しました。
「バリア・フィールド展開開始・・・、」
画面上に描かれたシーライオンの側面図上でバリア・フィールドが広がっていく様子が表示されます。
「展開完了しました。VMリアクタの出力変動なし、ジェネレータ全機正常稼働中です。」
「よし。」
川崎さん、ホッとしたように小さく頷きました。そして、あらためて私達に指示しました。
「シーライオンは現在の軌道で30分間待機する。不動君と鵜の木君はその間、バリアシステムの稼働状況を監視してくれ。」
「はい。」
「それと、そのほかのシステムのチェックも頼む。」
「はい。」
川崎さんは僅かに視線を上げると指示を続けました。
「小杉とライラも各自の担当システムを点検。月に向かう最後の機会だ。シーライオンが万全であることを確認してもらいたい。」
「了解しました。」
なお、今後シーライオンは宇宙空間を航行する際は、ほぼ必ずバリアシステムを展開することになります。宇宙空間に漂う細かな岩石などとの衝突に備えるためです。何しろシーライオンはこれまでの宇宙船にない高速で航行するのです。相対速度も高くなりますから、ごく小さな物体と衝突しただけでも大きく損傷する可能性があるのです。
「あと、むしろ、地球の周りも危険だと思うんだよね。」
鵜の木さんがペットボトルの飲み物を一口飲むと呟きました。
そうなんです。
実は地球の周りには、ものすごい数の浮遊物が漂っているんです。『デブリ』と呼ばれている、ぶっちゃけ、『ゴミ』です。
「人工衛星や探査機を打ち上げた時に出るゴミだよね。」
燃焼を終えて切り離されたエンジンや燃料タンクなどの区画や、打ち上げ時に衛星などの搭載物を覆っていたカバーなどが、放置されて漂っているのです。
「もちろん、打ち上げの時にはできるだけデブリを出さないように、大気圏に突入して燃え尽きさせるようにするんだけどね。」
「失敗する場合もあるし、中にはそんなことにお構いなく破片をばらまきながらロケットを打ち上げる国もあるし。」
宇宙空間で遭遇する可能性のある物体は他にもあります。
「軍事衛星ですね。」
何しろ、具体的な内容が公開されないまま、打ち上げられるのです。軌道も秘密なのです。
その時、私の席の端末でアラームが発報しました。
「どうした、バリアシステムの異常か?」
川崎さんが鋭く質問しました。
「いえ、違います。接近警報です。」
何らかの物体がシーライオンに接近していることを伝えるアラートです。
「・・・、人工衛星です。ライブラリに・・・、該当データなし。軍事衛星ですね、きっと。衝突の危険はありません。」
私はアラートを解除しました。
「言ってるそばからだな。」
まったくです。宇宙空間は、意外にも、地球の周辺の方が危険なのです。
それ以降は接近警報はありませんでした。シーライオンは静かに周回軌道を巡りました。
「何見てるの?」
ブリッジに戻った小杉さんがライラさんに尋ねました。ライラさん、窓から眼下の地球を見つめています。
「うん、ちょうど西海岸の上を飛んでいるの。うちはどの辺かなと思って。」
小杉さんも窓のそばに行くと眼下の地球を眺めました。
「ほんとだ。アメリカ大陸だ。ライラの家、サンディエゴだっけ?」
「ええ、そうよ。」
サンディエゴはロサンゼルスより少し南にある都市です。アメリカのお隣のメキシコと接している国境の町です。
「海軍の基地があるんだよね?」
「そう。太平洋艦隊がいるの。お父様の艦もね。」
ライラさんの家は軍人の家系なのです。
「私以外の家族はみんな軍人なの。」
「そうなんだ。」
そんなことを話している間もシーライオンは地球を見ながら周回軌道上を飛行していました。
「よし、そろそろ、行こうか。」
川崎さんが腕時計を見ながら言いました。
「全員、準備はいいか?」
「はい。」
みんな、声を揃えて答えました。
「うん。ライラ、周回軌道を離脱、シーライオン発進。」
「了解です。」
シーライオンは月に向かいました。地球を左に見ながら、そして、地球からは遠ざかりながら進みます。
「あれっ、」
みんな声を上げました。外が急に暗くなったんです。シーライオンが地球の影に入ったんです。丸い地球を太陽が照らしているので光の届かない反対側は夜になるのです。
「じゃあ、この影の部分にいる人達は、みんな寝てるんだ。」
もちろん、夜に仕事している人もいらっしゃるかとは思いますが。それを示すように暗い地表のあちこちに明るい光点が見えます。
「地球自体が回転していて、そこを太陽が照らしているから、影の部分から日の当たる部分に出てくると朝になって、それで、今度は日の当たる部分から影の部分に入ると夜になるんです。」
鵜の木さんがメインディスプレイに図を表示して説明してくれました。
「そうだ。地球はこの宇宙に誕生して以来、もう45億年もその繰り返しを続けてきたのだ。当然、我々人類もそのリズムの中で進化して発達してきたのだ。」
その川崎さんの言葉を聞いて、私の中に大きな疑問の雲がムクムクと湧いてきました。
「て言うことは、地球人は、自転周期が15時間とか、40時間の星に住むことはできるのでしょうか?」
仮に自転周期が40時間の星について考えてみると、昼と夜は20時間ずつになります。ということは、自転周期が40時間の星に住むとしたら、毎日20時間以上は起きていて仕事や学校、家事などの作業をやらないといけないのです。
地球は、昼と夜が12時間ずつです。ということは、自転周期が40時間の星では、私達は一日あたり8時間以上も長い時間起きていて活動しなければなりません。逆に夜は地球で生活するよりも8時間も長く眠らなければならないのです。
「それ、すごくきつくないですか?」
小杉さんが早くも音を上げたような声で言いました。確かに、私もきついと思います。
「僕達の体の中のリズムとその星のリズムが合わなくて、体調を崩してしまう気がしますね。」
鵜の木さんも同じ意見のようです。
「となると、単に地球に似た大気や気候を持つだけでは、第2の地球にはなれないと言うことになるな。」
川崎さん、右手で顎を触りながら考え込んでいます。これまで、第2の地球を語る時にはあまり話題になることのなかった新しいテーマなのかもしれません。
その惑星の自転周期。
「小杉って、いつも何時頃寝るの?」
ライラさんが質問しました。
「うーん、だいたい11時前かなあ。」
「以外と早いのね。朝は何時に起きるの?」
「6時・・・くらいだと思うよ。」
睡眠時間7時間。とっても健康な生活してるんですね、小杉さん。
「寝るまでの間の時間て何してるの?」
ライラさん、小杉さんの私生活に興味があるようです。
「いろいろだよ。テレビ見てることもあるし。ネット見てることもあるし。」
「トレーニングしたりとかも?」
「もちろん。でも、どちらかというと静かにしていることが多いかな。」
へー、意外です。小杉さん、仕事が終わった後はストイックにトレーニングしてるのかと思いました。
「あ、月だ。」
小杉さんが指さしました。10時から11時の方向でしょうか。シーライオンは日高基地を発進した後、太平洋上を東に進みながら上昇したのです。地球を北極側から見ると、シーライオンは地球を反時計方向に回るようにして宇宙に出たことになります。その後もほぼ同じ進路を維持して、地球から遠ざかりながら左回りに進みました。
「シーライオンが発進した時には月は日本から見ると地球の裏側にいたんですね。その月を左回りで追いかけて、やっと見えてきた感じですかね。」
鵜の木さんがメインディスプレイにシーライオンの予定航路図を表示して説明してくれました。鵜の木さん、ついさっきも即席の図で説明してくれたのですが、今度の図もとても分かりやすいんです。しかも、あっという間に作ってしまうんです。さすがです。私も見習わないと。
それにしても速いです。日高基地を発進してからまだ1時間ほどなんです。
「初めて月に着陸したアポロ11号は打ち上げてから3日後に月の周回軌道に入ったそうです。」
それを聞いた小杉さんが端末を確認すると私の方を向いて言いました。
「僕らは、あと1時間くらいで月に着くんですよね?」
「はい、そうです。」
それを聞いた川崎さんも呟きました。
「トータルでも2時間か。大阪に出張するよりも早いことになるな。」
新幹線だと東京から名古屋くらいの時間でしょうか。ちなみに、リニア新幹線は様々な理由で建設が遅れていましたが、やっと3年後に大阪まで開通の予定です。そうなると、東京から大阪まで約1時間。一応、月に行くよりは短い時間で行くことが出来るようになるんですね。
気が付くと、月の姿はどんどん大きくなっていました。
「あと3分で月の周回軌道に入ります。」
ライラさんが報告しました。すごいです。もう月に着いてしまうんです。ほんと、あっという間です。
「周回軌道に・・・、入りました。」
小杉さんも端末で確認しています。
「確認しました。異常ありません。」
「よし。」
川崎さん、席から立ち上がると左舷側の窓の前に立ちました。まるで壁のように月面が広がっています。
「すごいや。こんなに近くから見れるなんて。」
鵜の木さんもシートを左舷側に向けてじっと月を見つめています。
月。
地球の周りを巡る唯一の衛星です。直径は3,474Kmで地球の約3分の1。地球から約38万Km離れた軌道を約28日で公転しています。自転周期も同じく約28日。なので、月は常に同じ面を見せて地球の周りを巡っています。地球上から月の裏側を見ることは出来ないのです。
「すごいや。何か不思議な感じがする。」
小杉さんが呟きました。
月には水も空気もありません。生物の存在は許されない死の世界です。ですが、これだけ間近から見ると、何か不思議な魅力を感じます。
「白と黒のグラデーション。青も緑も赤も、何もないのね。」
宇宙飛行の経験を持つライラさんにとっても月は未知の場所なのです。
シーライオンのブリッジは静寂に包まれていました。全員、取り付かれたかのように月を見つめ続けました。
川崎さんが大きくため息をつくと、私達の方を向きました。
「仕事に取りかかろうか。」
そうです。私達、いろいろやることがあるのです。
「オペレーション室に行きます。」
そう言いながら鵜の木さんが立ち上がると、ブリッジを出て行きました。
月での最初の仕事は、オービット・アイの放出です。
『オービット・アイ』とは、ノースポール・プロジェクトで新しく開発した無人探査機です。観測対象の星の周回軌道に投入して、軌道上から観測を行うのです。今回は月の周回軌道に投入して、その機能の確認を行うのです。
これまで使われてきた無人探査機は例えば搭載している軌道修正用の燃料などの制限により寿命がありました。しかし、オービット・アイはその心配はありません。エネルギー源としてVMジェネレータを搭載しているのです。VMジェネレータとは超小型化したVMリアクタです。出力はかなり小さいのですがVMリアクタと同じように半永久的にエネルギーを発生し続けることが出来るのです。このVMエネルギーでドライブパネルを駆動することで軌道修正や近距離ならば移動も可能なのです。
鵜の木さんは、ブリッジ後方の左舷側にあるオペレーション室に入ると端末の前に座りました。
「小杉さん、鵜の木です。」
「はい、小杉です。」
「カーゴルームの上部ハッチを開けてもらえますか?」
「了解です。」
シーライオンは船体の後ろ半分がカーゴルームになっています。その天井部分のハッチが開きました。
「オービット・アイ、準備完了。放出します。」
一番後方に積まれていた六角形の機体が静かに浮上しました。鵜の木さんはもう一度だけ画面を確認すると実行キーを叩きました。
「移動開始。」
オービット・アイは横滑りするようにシーライオンの左舷側に出ると、斜め上方に進路を変えて速度を上げながら遠ざかっていきました。
「放出完了。」
「不動です。こちらでも確認しました。軌道良好です。」
オービット・アイの放出作業は終了しました。
鵜の木さんがブリッジに戻りました。それを見た川崎さんが指示を出しました。
「よし。では、シーライオン、降下開始だ。」
「了解。降下します。」
ライラさんは操縦桿を少しだけ前に倒しました。シーライオンは艦首をやや下向きにして高度を下げ始めました。
月面に向かうのです。着陸予定地点は晴れの海です。アポロ11号は静かの海の南の端に着陸しました。そして、17号は北の端に着陸しています。
「我々が目指すのは晴れの海の北の端だな。」
川崎さんが呟きました。
「はい。この辺りです。アポロ計画でも着陸していない、有人探査が行われた中では最も北よりへの着陸になります。」
鵜の木さんがメインディスプレイに月面の地図を表示して説明しました。
シーライオンは高度100mまで降下すると水平飛行を開始しました。
「現在、コペルニクスクレーター上空を東北東に飛行中。」
シーライオンは滑るように飛行しました。眼下を大小様々なクレーターや、岩石の散らばる荒涼とした地形が流れてゆきます。
「前方に晴れの海を確認。距離5千。」
少しするとなだらかな地形に変わりました。晴れの海に入ったようです。
「速度を落とします。」
ライラさんが足下左のペダルを軽く踏みました。シーライオンが減速してゆきます。
「そろそろ目的地です。停止して下さい。」
私はライラさんにお願いしました。シーライオンは速度を落として、そして月面上空に静止しました。
平原と言えば良いのでしょうか。岩石などの障害物のほとんど見当たらない平らな地形が広がっています。北に当たる方角のやや遠くには起伏のある地形が広がっているようです。平原のような地形なので着陸するのは安全なのですが、少々変化に乏しいかもしれません。
「もう少し北へ行ってみませんか? 平原のど真ん中というのもなんかつまらない気がします。」
鵜の木さんがそう提案しました。私もメインディスプレイに投影している地図上で着陸場所を提案しました。
「ここから、もう5キロくらい北のこの辺りはどうでしょうか。ここなら、晴れの海の北側の険しい地形にも近いと思います。」
川崎さん、頷いてます。
「よし。その地点に決めよう。ライラ、移動を頼む。」
「了解です。」
低速で移動します。車で走るくらいの速度です。前方少し先に見える険しい地形がゆっくりと近づいてきます。
間もなく、目的地に到着しました。ライラさんが私の方を向いて言いました。
「場所だけど大丈夫かしら?」
「はい。大丈夫です。」
その会話を聞いて川崎さんが指示しました。
「ライラ、着陸しよう。」
「了解。着陸します。」
「慎重に頼む。」
川崎さんが念を押すようにライラさんに頼みました。
「はい。」
ライラさん、操縦桿のサブコンソールから着陸用の設定を呼び出します。そして、
「ランディングギアを出します。」
シーライオンの艦底部から6機のギアが伸ばされました。
「降下開始・・・」
ライラさんは慎重に高度を下げます。
「50・・・40・・・、」
シーライオンはゆっくりと高度を下げていきます。
「地表に障害物なし。」
小杉さんが艦底部カメラで着陸地点の映像を見て報告しました。もう、表面は間近です。
「20・・・10・・・、制動、」
降下速度がさらに遅くなりました。動いているかどうかも分からないほどです。
次の瞬間、シーライオンが僅かに振動しました。ライラさんが端末を叩きます。
そして。
「速度ゼロ。着陸しました。」
続けて小杉さんも報告します。
「着陸を確認しました。全艦異常ありません。」
ブリッジ内にためいきがもれました。川崎さんが立ち上がりました。
「みんな、よくやった。人類は82年振りに月に戻ったのだ。ありがとう。」
みんな、拍手しました。私達は人類として8回目の月面着陸に成功したのです。
時に、西暦2054年5月20日、
午前11時45分のことです。
(つづく)