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■宇宙巡光艦ノースポール 第5章.水星 第2節.最初のことば ノースポールは水星の周回軌道にいました。オービットアイとエクスビークルの投入作業は終了して、既に運用はNASAに引き継がれていました。写真撮影などの基本的な観測から順番に開始される予定です。一方、ノースポールでは次の探査活動のための準備が進められていました。 シーライオンで水星表面に降下して、有人探査を行うんです。 三田さんと中原さんは統括部のオフィスで有人探査の計画書を読んでいました。まず、中原さんが第1回目の有人探査で、そして、三田さんは第2回目の有人探査で水星の表面に降り立つ予定なんです。金星を探査した時と同じように、ここ水星でも、表面を10のエリアに分けて、ひとつずつ順番に調査する予定です。 「水星の上を歩くのってどんな感じなんですかね?」 中原さんが三田さんに尋ねた。 「・・・想像もつかないけど、」 水星の重力は地球の約3分の1です。無重力ではありません。月面の重力が地球の約6分の1ですので、それに比べるとちょっとだけ重力は強めです。そして、月面と同じく、水星の表面も遠く離れた地球とはまったくつながっていない完全に独立した大地なのです。言葉にはできない不安がありますよね。 三田さんも中原さんも月面探査には参加していいません。また、金星は気候が厳しかったために表面の有人探査は行われませんでした。ですから、ノースポールとしては、ここ水星で初めての有人探査を行うことになります。 ケータイが軽快なリズムの着信メロディーを鳴らし始めました。 「はい、中原です。」 小杉さんからのようですね。 「・・・はい。はい、了解しました。」 中原さんは机の上に置いたケーパッドを取りながら三田さんに伝えました。 「ミーティング行ってきます。」 「おとで話聞かせて、参考に。」 「はい。」 中原さんはケーパッドの画面をロックすると、そのまま立ち上がりました。エントランスホールに向かいます。ここからブリッジへ通じるエレベータに乗ることができるのですが、それには乗らずに右舷側の階段で一つ上の階に行きます。二つ目の会議室のドアが開いていました。中では、レオン君と私が待ってました。 「レオン、操縦は頼むよ。」 「任せて下さい。」 中原さんは、レオン君と私の向かい側の席に座りました。 レオン・エワルド君。若干18歳ながら、ロシアの天才パイロットなんです。 彼が5歳の時、叔父さんに小型機に乗せてもらっている時に、操縦していた叔父さんが急病のため意識不明に。レオン君は無線で最寄の空港の管制官から指示を受けながら叔父さんに代わって機を操縦して無事に着陸させたのです。その際の操縦センスが認められて、空軍でパイロットとして英才教育を受けてきたのです。ノースポールでもパイロットシフトに入っているのはみなさんもご存じの通りです。 少し待つと小杉さんとエリーさんが、そして最後に川崎さんも現れました。ちなみに、エリーさんとは通信オペレーション部のエリシュカさんのことです。愛称、ですね。 まず、川崎さんが話し始めました。 「我々はシーライオンにより水星に着陸して船外活動を行う。」 小杉さんが手元の端末を操作して資料をスクリーンに表示しました。着陸地点やスケジュールがまとめられています。 「今日この後出発する第1回目の探査の着陸地点はここ。エクスビークル2号機の着陸地点から南に5キロの場所だね。」 エクス・ビークルは金星と同じで4機を投入しました。2号機は北半球の赤道に近いエリアに配備した機体ですね。 「シーライオンの指揮は小杉に採ってもらう。」 「了解です。」 小杉さんは正面のスクリーンに表示した資料とケーパッドに配付した資料を使って、スケジュールと船外作業の内容を説明しました。観測機器の設置と岩石や砂の採集を行う予定になっています。 打ち合わせの最後に川崎さんが立ち上がって話し始めました。 「諸君、我々はまだ宇宙に出たばかりの極めて未熟な初心者だ。とにかく、安全を最優先にして作業を進めてもらいたい。何か問題が起きたなら、すべての作業をキャンセルしても構わない。とにかく、無事にシーライオンに、そして、ノースポールに戻ることを最優先に行動してほしい。」 「はい。」 これから向かう場所は地球からは完全に切り離された全く別の大地なのです。空気も水もない生物の存在すら拒む厳しい世界なのです。些細なミスも直ちに生命の危機につながるのです。 そんな危険を冒してまで、宇宙に行く必要があるのかという考え方もあるかもしれません。確かに具体的な価値として表現するのは難しいかもしれません。でも、そこに行くことで他には変え難い貴重な経験ができることも間違いないのです。 まあ、金星の探査では、イレギュラーなことも起きてますので。川崎さんも、それを念頭に安全優先を念押ししているようです。 「もちろん、船外活動のノウハウはぜひとも蓄積してゆきたいが、無理する必要は全くない。危険を感じた時は、まずは、自分の身の安全を優先してほしい。私からは以上だ。」 川崎さんは珍しく熱弁をふるうと、席には座らずにそのまま退室しました。代わりに小杉さんが立ち上がりました。 「それじゃあ、一旦解散しよう。出発は30分後だから遅れずに集合するように。」 打合せが終わると、小杉さんはそのまま、艦底部係留ベイに向かいました。エントランスホールからエレベータに乗ると下へと降ります。ドアが開いたらエレベータを降りてすぐ脇の階段を降ります。急に視界が開けました。明るい照明に照らされて、シーライオンが、そこにいました。 「今日も頼むよ!」 小杉さん、シーライオンに、声を掛けると、慣れた足取りで艦内に入っていきました。もう、すっかり、相棒っていう感じなのかもしれないですね。 小杉さん、ブリッジに入ると艦長席に座りました。 既に日常の一部になっていました。金星では、シーライオンは金星本星に10回、衛星ディーバの探査に2回、合計12回の探査活動のために発進しています。乗り込むメンバーは統括部、航海部、技術部、通信オペレーション部から、1名程度ずつ集まっていました。 そして、ここ、水星でも金星の時と同じように10のブロックに分けて、1日1ブロックずつ順番に探査することになっていました。 「おつかれさまですー。」 「あ、不動さん。ジャンケンで勝ったんだよね?」 今回、水星の第1回目の探査メンバーを賭けて、再び、鵜の木さんとジャンケンで対決したのです。結果は、グーで勝ちましたー。やったー! 「鵜の木さんが悔しがってたよ。」 「そうなんですね。でも、勝負の世界は厳しいんです。」 なんか、ちょっと大人げない、とか言われてしまいそうですが、大人的に畏まった、大人しい感じになってしまうのもどうかと思うのです。特に、ここは、何が起きるか分からない宇宙空間です。たとえ想定外の事態に直面しても、柔軟性のある判断で、その事態を適確に乗り越えていくためには、大人げない、子供的な発想を持つ頭脳が必要な気がするのです。そうした意味で、良い意味で大人げない人間として日々の生活を送って行きたいと思っています。 「小杉さん。すっかり、その席に馴染んでますね。」 いえ、別にからかった訳ではなくて、なんか、1隻の艦を指揮するリーダーとしての落ち着き感というか、風格があると思うのです。 「いやいやいや、実際は、なんか、そわそわした感じで全然落ち着かないよ。艦長席に座るだけで艦長が務まるわけじゃないしね。でも、艦長という立場の重みはわかってきたつもりだよ。」 さすが小杉さんです。それだけ分かってれば十分な気がします。実際、川崎さんは、ノースポールの艦長を良く引き受けたと思います。何しろ、人類初の光速を越える宇宙船の艦長です。海のものとも山のものとも分からないのです。でも、確か、川崎さん、二つ返事で引き受けたんですよね。まあ、幼馴染みで親友の布田さんから頼まれたので断れなかったのかもしれないですが。うーん、頼む方も頼む方、受ける方も受ける方、っていう感じかもしれません。 「小杉さん、発進準備完了です。」 おっ、中原さんもだいぶ様になってきました。 「よし、レオン、降下開始。」 「はい。」 シーライオンは開放された艦底部ハッチを抜けて、ノースポールの下の宇宙空間に出ました。 「艦長、行ってきます。」 「うん、くれぐれも無理はしないようにな。」 「はい。もちろんです。じゃあ、行ってきます。」 「うん。」 はははっ、川崎さん、口には出しませんがやはり、心配なんですかね。 「エリーちゃん、気をつけてね。いってらっしゃーい。」 「はい、行ってきます。」 大森さんも、エリーさんに見送りのことばを伝えました。 シーライオンは発進、水星の表面を目指しました。 「うーん、でも、やっぱ何か違うよな。」 突然、中原さんが呟きました。 「どうかしたんですか?」 操縦席のレオン君が尋ねました。 「あのさ、・・・発進する時って、なんかこう、もっとさ・・・。」 なんか中原さん、言いにくいのか、ことばが見つからないのか、もじもじしています。 「どうしたんだよ、何かあったら何でも言って良いんだよ。」 小杉さんが中原さんの背中を押しました。 「そうですよ。思ったことは口に出して言えば実現するって言うし。」 私も中原さんを応援しました。 「あの、」 おっ、中原さん、重い口を開きました。 「発進する時なんですけど、」 「うん。」 小杉さんも私も中原さんを見つめて聞き耳を立てました。 「例えば、『シーライオン、行きまーーすっ!』とか言うのはダメなんですかね?」 『へ・・・?』 小杉さんも私も、思わず目が点になってしまいました。そ、それって、もしかして・・・。 「そうそう、それで、カタパルト発進ができると格好いいんですけどねえ。こう、ギュイン、ギュイン、ギュイン、グワーーー、みたいな。」 あのー、中原さん、完全に自分の世界に入ってますね。もしもーし。 「それって、もしかして、『ゴージャス』ですか?」 おっ、エリーさんが中原さんの世界に突入しました。 「そうそう、えっ!? なんでエリーさん知ってるの?」 中原さんにとっても思わぬ援軍だったようです。エリーさん、何で知ってるんだろう? 「『ゴージャス』はチェコでも人気あるんです。テレビでも放送してるし、プラモデルも売ってますね。」 「えー、そうなんですか?」 なるほど、今や日本のアニメは世界的な文化のひとつですもんね。一応、みなさんにも説明しておきましょう。 『機動指令ゴージャス』。 日本のアニメーション作品ですね。西暦2039年に最初のシリーズの放送が開始されて、現在も新しい作品が作られている人気アニメです。 どうやら、エリーさんは、日本語の勉強のために、その、ゴージャスだけでなくて日本のアニメをいくつも見ていたようですね。同じような話は他にも聞いたことがあります。今や、日本のアニメは、外国の方たちが日本語を勉強するための教材でもあるんですね・・・。そういえば、私も、英語の勉強のためにアメリカのドラマや映画を見まくったことがありました。はははっ、みんな、考えることは同じなんですね。 「目的地まであと10分。」 中原さんとエリーさん、まだ盛り上がっています。エリーさん、オタクの才能ありそうです。 「ちなみにさ、中原。」 おっ、小杉さんが2人の会話に割り込みました。見るに見かねてお説教でしょうか。 「大丈夫なの?」 「えっ、何がですか?」 ふふふ。私も知ってます。実は中原さん、考え事をしていたはずなんです。 「えっと・・・、あれっ?」 なんか、すっかり忘れてるみたいですね。そんなに『ゴージャス』の話に夢中になっていたとは。 「あっ・・・、あーーーっ!」 やっと思い出したようです。中原さん、重大な役を仰せつかっていたのです。 「頼むぞ、中原!」 「そ、そうだった、どうしよう・・・。」 そんな中原さんに関係なく、シーライオンは順調に飛行していました。いまは、水星の夜の部分を飛行しています。水星は太陽に一番近い惑星ですが、夜の気温は−273度ほどまで下がるのです。極寒の地ですね。一方、水星の昼間の場所は最高で400℃を越えます。寒暖の差が激しすぎるんですね。しかも、昼間の場所は太陽の日差しも強烈な上、強い電磁波や放射線も心配です。そんなわけで、私たちは水星でちょうど朝を迎えた地域に着陸することにしたのです。 「速度落とします。」 外の景色の流れる速度もゆっくりになっていきます。 「この辺りはクレーターが少ないですね。」 中原さんが周囲を見回しながら呟きました。 月面もそうでしたが、水星の表面はクレーターが多く分布するエリアと、比較的なだらかな平坦な場所もあります。有名なのはカロリス盆地といって直径1500Kmほどもあります。地球では、東京から福岡までがおよそ1000Kmですから、日本が半分以上収まってしまう広さです。 「予定の地点に到着します・・・、到着、停止しました。」 「艦底部カメラ起動。着陸地点を確認します。」 中原さんが着陸する場所を目視でチェックします。着陸の障害になる大きな岩や、段差がないかどうかを最終確認するんです。 「確認しました。障害ありません。」 「よし、着陸しよう。レオン、降下して。」 「了解。」 レオンさんが操縦桿を僅かに倒しました。シーライオンがゆっくりと高度を下げ始めました。 「ランディングギアを出します。」 通常の航空機の場合にはランディングギアは車輪なのですが、シーライオンは「脚」だけです。滑走路を走行することは想定されていないんですね。 シーライオンはさらにゆっくりと降下していきます。そしてついにランディングギアが水星の地面に触れました。僅かに砂埃が舞い上がります。シーライオンは水星に着陸しました。 「着陸を確認。ドライブパネル推力カット。」 「シーライオン、全機能異常なし。」 「うん、ありがとう。」 歴史上初めての、有人宇宙船による水星表面への軟着陸に成功したことになります。 そう答えた小杉さんも、他のみんなも外の景色を見つめていました。地球で見るよりも3倍ほど大きく見える太陽が、水星の地平線上から半分ほど見えていました。太陽の照らす日差しが水星の大地を斜めに照らしています。表面の細かな起伏や岩によって陰が描かれていて、まるで水墨画を見ているようです。 小杉さんがため息をつきながら呟きました。 「すごい眺めだな。」 月に似ていますが、低い日差しのせいか、何倍も神秘的に見えるのです。 「船外活動の準備をしよう。」 「了解。」 水星表面には、今回乗り組んでいる5人全員が降り立つ予定なんです。まず始めに、小杉さんと中原さん、そして、エリーさんの3人が外に出ます。観測機器の設置作業を行ったあと、残りの、レオン君と私も外に出て、5人で記念撮影をします。ひとまず、全員シーライオン1階の作業室に集まって宇宙服に着替えます。 「そう、そこを閉じる。」 「ここは縦に折るんですね。」 パーティションを挟んで、男性チームと女性チームに分かれて、互いに確認しながら手順に従って宇宙服を着用していきます。特に、初めて船外に出るレオン君には小杉さんが、エリーさんには私がついて細かく指導します。ここでのミスは直ちに生命の危機につながるので、みんな本当に慎重です。 「それじゃ、中原とエリーさん、エアロックに移動しよう。」 「はい。」 各自自分のヘルメットを持って作業室の後方にあるエアロックに移動します。レオン君と私は一旦ブリッジに戻りました。 「ヘルメットを被ろう。」 小杉さんの指示に従って、再び、互いに確認しながらヘルメットを被ります。小杉さんがエリーさんのヘルメットの状態を確認します。密閉されているかどうかと、背中のランドセルとの接続が出来ているかどうかを念入りにチェックします。最後に、宇宙服の左の手首に付けている操作パネルで宇宙服とヘルメット、ランドセルの動作をシステム的に確認します。 「よし。大丈夫ですね。次、中原。」 続けて、今度は中原さんの宇宙服を確認します。 「よし、OK、」 小杉さんが、ブリッジで待機している私を呼びました。 「不動さん、聞こえますか?」 「はい。不動です。」 「こちら、準備完了です。エアロックを減圧して下さい。」 「了解です。」 私は目の前のコンソールに表示されている『Decompression』のボタンにタッチしました。空気が抜ける音がし始めました。3人はまるで宇宙服の生命維持装置の機能を確認するように、ゆっくりと呼吸しながら待っています。しばらく待つと、空気の抜ける音が止みました。 「減圧完了しました。」 「では重力装置も解除してください。」 「はい。手摺りに掴まってください。」 3人は壁の手摺りを掴みました。 「解除します。」 「わっ、」 エリーさんが小さな声で叫びました。エアロック内の重力が解除されたのです。体が浮き上がる感覚を感じたんですね。 「大丈夫?」 小杉さんが後ろを振り向いて声を掛けました。 「はい。でも、なんか、体が軽くておもしろいです。」 「うん、でも、慎重にね。」 「はい。」 小杉さん、エリーさんと話し終わると私を呼びました。 「重力の解除を確認しました。ドアはこちらで開けます。」 「はい。了解しました。」 小杉さんは中原さんとエリーさんに伝えました。 「ロックを解除するよ。」 小杉さんは壁の端末から暗証番号を入力しました。テンキーの横のLOCKと書かれたボタンが赤く点滅を始めました。小杉さんが押すとボタンは緑色の点灯状態に変わりました。 「ドアロック解除完了。」 一番前に立つ中原さんが小杉さんに言いました。 「ドアを開けます。」 「うん。」 中原さんは取っ手を両手で掴むとゆっくりと手前に引いてドアを開けました。シーライオンのエアロックと水星の空間がつながりました。 「私たちって、もう、水星にいるんですね。」 エリーさんが控えめな、しかし、驚きを隠せない感じの声で言いました。 「うん。ここはもう水星だね。」 小杉さんが答えました。 「よし、中原出られるか?」 「大丈夫です。行きます。」 「よし。ここで見てるよ。ゆっくりでいいぞ。」 「はい。」 中原さんはエアロックのドアから外に出ました。タラップが展開されています。一番上の段で立ち止まると周りを見渡しました。そこは夢にまで見た宇宙です。中原さん、ノースポール・プロジェクトに来る前は天文台で働いていたのです。そして、望遠鏡の空き時間を使って、星を眺めていたのです。水星も1回だけ見ました。小さな円盤のように見えたのを覚えていました。まさに、その時に見た水星に、中原さんは来て、そして、今まさに自分の足で表面に降り立とうとしているのです。 中原さん、両手でタラップの両側の手摺りを握ったまま、ゆっくりと足を踏み出しました。 「焦るな。慎重に行け。」 小杉さんが声をかけました。中原さん、一段一段確認しなから慎重に降りて行きます。ここが地球上なら何も難しい作業ではありません。無意識にできる動作です。しかし、ここ水星の重力は地球の約3分の1なのです。体を動かした時の感覚は全く異なります。 中原さん、やっと一番下の段まで降りました。そこで再び立ち止まると、大きく深呼吸をしました。そして、まず右足を地面に降ろしました。その降ろした右足で、何度か、軽く地面を踏みしめて、感触を確認します。地球でもよくある砂地のようです。中原さん、左足も降ろすと手摺りを握っていた両手を離しました。ゆっくり向きを変えると、まだタラップの最上段にいる小杉さんとエリーさんを見上げました。 2055年2月4日。午前11時15分。 (ノースポール艦内時間) 人類は初めて水星の大地に足跡を記したのです。 「中原、」 小杉さんが呼びかけました。水星表面の探査チームへの参加が決まってからというもの、中原さんは表面に降り立った時に最初に言うことばを考えていたのです。 「アームストロングが月に立った時のことばは有名じゃないですか。」 ”これは一人の人間には小さな一歩だが、人類にとっては大きな飛躍だ。” 中原さんは、果たしてなんて答えるのでしょうか。 「中原、感想はどうだ?」 小杉さんが聞きました。 「すいません、いま、ちょっと・・・。」 小杉さん、きっと、目が点になってます。 中原さん、地球よりも弱い重力のもと、ぎこちなく歩き回っています。 「それはないだろ、中原。」 あまりにも緊張していたため、中原さんは「最初のことば」のことをすっかり忘れていたのです。テレビの生中継こそないですが、艦内放送局のクルーも、中原さんが水星に降り立つ様子を撮影していたのです。 「あーあ、やっちゃいましたね。」 ノースポールのブリッジで水星表面からの中継を見ていた三田さんが、残念そうに言いました。 「よっぽど緊張してたのね。」 ライラさんが同情した様子で呟きました。 「地球にいるメンバー達ががっかりしそうだな。」 川崎さん、むしろ微笑ましそうな表情です。 「いや、逆にうけたりして。」 ハハハ、それもあるかもですね。 いずれにしても、中原さんの名前は、最初に言ったことばと共に歴史上にはっきりと刻まれることでしょう。 「何年かたったら、そのことばを学校で勉強するかもしれないのに。」 三田さんが、大げさに残念がりましたた。しかしそれも聞こえていないかのように、中原さんは辺りをうろうろと歩き回っています。水星表面での歩き方に慣れようと必至のようです。 「僕たちも降りようか。」 「あ、はい。」 小杉さんがエリーさんを促しました。二人も慎重にタラップを降ります。まず、小杉さんが水星の大地の上に立ちました。そして、エリーさんをエスコートします。 「ゆっくり、慎重にね。」 「はい。」 エリーさん、小杉さんのアドバイスどおりに慎重に両足を水星の表面に降ろすと、支えてくれていた小杉さんの手を離しました。 小杉さん、先ほどと同じ質問をしました。 「どう? 感想は。」 エリーさん、ちょっと間を置いて答えました。 「えっと、とっても、不思議です。ここは水星です。地球とは違う、地球の大地とはつながっていない、全く別の星なんです。でも、宇宙服のブーツを通じて感じる水星の大地の感触は、私の故郷のチェコの大地の感触と全く同じなんです。とっても不思議です。」 なんか、感慨深い、文学的な感想です。エリーさんの感じている、その、水星の大地の感触、きっと、チェコで見守っている人達にもきっと伝わったことと思います。 小杉さんも慎重に歩き回り始めました。 「やっぱ、重力は月よりも大きいかな。」 小杉さんは、月面も歩いたことがあるのでその違いがわかるようです。 「ふわふわして、予想していた以上に歩きにくいですね。」 「でも、だいぶ慣れてきました。楽しいです。」 『最初のことば』の件を覚えているかどうかは分かりませんが、中原さん、楽しそうです。 「もう少し慣れてから作業を始めようか。」 3人はシーライオンの周囲を歩き回りました。太陽はまだ低い位置にいました。そのため気温はそれほど高くはありません。でも、太陽の高度が上がると気温は400度を越えて灼熱の世界となるのです。 「よし、そろそろ始めよう。」 小杉さんは中原さんとエリーさんに声を掛けた。 「はい。」 「はい。」 3人は先ほど降りたタラップの右手にあるカーゴロッカーに向かいました。ここには水星に設置する観測機器が収められているのです。小杉さんがドアに組み込まれているテンキーから暗証番号を入力しました。ドアが手前側にわずかにせり出しました。 小杉さんはドアの取っ手を指し示しながら中原さんに言いました。 「そっちの取っ手を持って。」 「はい。」 2人はカーゴロッカーのドアをゆっくりと開けました。中には棚があって設置する3台の機器が格納されていました。小杉さんと中原さん、1台目の観測機器を外に取り出して一旦地面に降ろしました。 「持ち上げよう。」 2人は荷物を両側から持って運び始めました。 「ゆっくりでいいよ。焦るな。」 小杉さんが注意しました。地球に比べると重力が弱いので重い機器も運ぶことができます。でも、歩くのに十分慣れていないので、ちょっとでも気を抜くと転んでしまいそうでした。 小杉さんが、機器の置き場所を指示しました。 「ここにしよう。」 「はい、降ろします。」 観測機器を地面に降ろします。同じようにして、残りの2つの機器も運び出して設置しました。最後に小杉さんが国連旗を持って来ると、観測機器を置いた近くの地面に立てました。小杉さんはシーライオンで待機している私を呼び出しました。 「不動さん、動作確認お願いします。」 実は、確認は終わっていました。機器が置かれると速攻でチェックしたのです。 「もう確認しました。正常に動作しています。」 「了解。」 小杉さんはシーライオンを見上げました。船体の左舷側は太陽からの光を受けて白く輝いています。ブリッジの窓からレオン君がこちらを見ているのが見えました。小杉さんが手を振るとレオン君も手を振って答えました。 「不動さん、」 小杉さんが再び私を呼びました。 「じゃあ、作業も終わったので、外に来てもらえますか?」 「はい、了解です。これから行きます。」 シーライオンに乗り組んでいる5人で記念写真を撮るんです。 「レオン君、行きましょう。」 「いよいよですね。ドキドキしてきました。」 そうですね。レオン君は初めての船外活動なんです。これは意外なことなのかもしれないのですが、ソビエト時代も含めて、ロシアは月の有人探査を行っていないのです。アメリカに並ぶ宇宙大国であるロシアも、月面に宇宙飛行士を送り込んではいないのです。ですから、レオン君は、ロシア史上で初めて、地球以外の星に足跡を残した人物になるのです。 「じゃあ、行きます。」 「大丈夫、みんなで見てるから。」 「頑張って!」 レオン君、シーライオンのタラップの一番下の段から、まず、右足を降ろしました。足を左右に動かして、地面の感触を確かめます。そして次に左足を降ろします。そして、両足がしっかりと地面に降ろされたことを確認すると、タラップの手摺りを握っていた両手を離しました。一歩、また、一歩と、ゆっくりと歩いて、小杉さんと中原さん、エリーさんの立つ場所まで行きました。 小杉さんが聞きました。中原さんとエリーさんにしたのと同じ質問です。 「どう、気分は?」 「はい。興奮してます。」 「何か感想も聞いていいかな?」 レオン君、少し考えてから話し始めました。 「はい。正直なところ、とても緊張して、とても興奮しています。僕の祖国ロシアは、もう長い間、僕が生まれるよりも前から、本来は友人であるはずの隣国ウクライナへの支配を拡大するための戦争を行ってきました。でも、その行為によって得られたのは、軍事力で自国の欲求を解決しようとする侵略者の汚名だけでした。でも、戦争など行わずに、逆に、世界の国々と平和的に協力すれば、こうして、僕がいま体験しているように、地球から飛び出して、地球とは別の星に来ることも出来るのです。やはり、祖国と僕達は、世界の人達と協力する道を進むべきなのです。今回の宇宙飛行で、僕はそれをはっきりと理解することが出来ました。今回のノースポールのテスト飛行が無事に終わって地球に戻ることが出来たら、この感動を祖国のみんなに伝えたいのです。そのために、この後のテスト飛行でも、ベストを尽くしたいと思います。僕からは以上です。」 レオン君の気持ちが、ぎっしりと詰まったスピーチ、きっと、ロシアの人達にも届くことでしょう。 私も祈りました。 地球に住むすべての人が平和に、穏やかに暮らすことの出来る日が、早く、訪れますように。 シーライオンは、ノースポールへの帰還の途につきました。 (つづく)
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■更新履歴 2023/05/21 登録 2023/06/08 タイトル修正