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■宇宙巡光艦ノースポール

第8章.TA1
第1節.シャトル不時着

 西暦2053年6月10日。

 この頃、ライラさんは、地球の衛星軌道上に作られた宇宙ホテルに宿泊するゲストを送迎するシャトルのパイロットとして、地上とホテルの間を行き来していました。

 乗務するシャトルは、宇宙ホテルにドッキングした状態で地球の周囲を巡っていました。このあと、ホテルから地上に戻るゲストを乗せてホテルから離脱、大気圏に突入して地上へと降下するのです。

 操縦席に座るライラさんは、左手に持ったケーパッドを見ながら発進前の点検を行っていました。エンジン、燃料、そして、生命維持システムとコンピュータ。点検する項目は多岐に渡っていました。

 乗務する機体は『シャトル・バタフライ』。周回軌道上に建造された宇宙ホテル『オービット・パラダイス』に宿泊するゲスト送迎用のスペースシャトルなのです。定員は、ゲストが8名、客室乗務員2名、そして、操縦士と副操縦士で、合計12名が乗り組みます。

 ライラさんは右上のパネルのスイッチを入れました。

「管制ルーム、こちらシャトル・バタフライ。発進前の点検が完了、問題なし。そちらの状況はどうかしら?」
「こちら管制ルーム。地上基地も受入準備完了している。いつでもいいぞ。」
「了解、ありがとう。」

 客室では乗務員がゲストの着席状況を確認していました。

「大気圏突入の時は、機体が炎に包まれると聞いたのだが、」

 初老の男性ゲストが不安そうな、しかし、興味津々な様子で質問しました。乗務員は笑顔で答えました。

「はい。でも、シャトルには影響ありませんので、慌てないでそのまま座っていて頂ければと思います。」

 なお、ゲストは、有名企業の経営者や、ハリウッドなどで活躍する映画俳優のような富裕層です。地球の周囲に5機の宇宙ホテルが建造されて、営業する時代になりましたが、まだまだ宇宙旅行は、一般人には手の届かない、お金持ちの道楽なのです。

「客室の準備完了しました。」

 操縦席のスピーカーから、客室乗務員の報告が聞こえました。

「こちら機長、了解。」

 機長。そう、ライラさんは、このシャトル・バタフライの操縦士であり機長なのです。ライラさん、スピーカーの横のスイッチを切り替えました。

「みなさま、シャトル・バタフライの機長、ライラ・バーンスタインです。オービット・パラダイスでの宇宙の滞在はいかがだったでしょうか? 本機はこれより、その、オービット・パラダイスに別れを告げて、地上に戻るための降下に入ります。興奮と感動に満ちた、この旅の最後を締めくくるイベントです。降下中は多少の揺れが予想されますが、どうか、慌てることなく、地上への到着をお待ち頂けないでしょうか。それでは、間もなく発進します。」

 ライラさんスピーカー横のスイッチを元に戻すと副操縦士に声を掛けました。

「じゃあ、行きましょ。」
「はい。」

 ライラさんは、再び地上の管制ルームを呼び出しました。

「シャトル・バタフライ、発進します。」
「管制ルーム、了解。グッドラック。」

 ライラさんが副操縦士に指示しました。

「ドッキングロック解除。」
「了解、解除しました。」

 弱いショックを感じました。ライラさん、一瞬スラスタを噴射すると、宇宙ホテルから離れました。

「メインエンジン噴射、減速開始。」

 機体後部の噴射ノズルを起動。シャトルは宇宙ホテルを離れて減速を始めました。

 ・・・、もしかして、違和感を感じられた方、いらっしゃいますでしょうか?

『メインエンジン噴射』で『減速』なのです。普通なら加速するのでは、と思われるかも知れません。

 宇宙ホテルは地上からの高度約400kmほどの軌道を、時速27,700kmという速度で地球の周囲を巡っています。ということは、そこにドッキングしていた、ライラさんのシャトルも、同じ速度で飛んでいることになります。

 具体的な速度がイメージしづらいかと思いますので、あくまで目安として書いてみますと、音速、すなわち、音の進む速度は、秒速340mで、時速に直すと1,224kmです。ちなみに、気温15℃、1気圧での値です。これが、マッハ1になります。また、アメリカ空軍のF15戦闘機の速度はマッハ2.5で、時速3,060kmです。なので、宇宙ホテルは、これらに比べると桁違いに速い速度で飛んでいることになります。

 この、凄まじい速度から減速して、高度を下げて大気に触れさせることで、さらに減速して地上へと降下するのが、大気圏突入なのです。

 なお、宇宙ホテルへのゲストの送迎用シャトルは、宇宙ホテルへの到着時に姿勢制御を行って、宇宙ホテルの飛行方向と逆向きにドッキングさせる運用となっていました。なので、地球への帰還の際は、ドッキングを解除して宇宙ホテルと距離を取ったら、そのまま、後部ノズルから噴射すれば、それが逆噴射となり、減速できる仕組みになっていました。

 ライラさん、地上の管制ルームに報告しました。

「減速完了。エンジン停止。降下を開始した。姿勢制御を行う。」

 それまで、前後逆方向に飛行していたシャトルが、飛行する前方向に機首を向けた姿勢に変わりました。

「姿勢制御完了。」

 そう報告すると、ライラさん、小さくため息をつきました。あとは、大気圏突入中の姿勢に気を付ければ、地上付近まで戻ることが出来ます。

「順調ね・・・、」

 副操縦士の方を向いて、そう伝えました。

 その、副操縦士、ライラさんより2歳年上で、ある通信社の取材機のパイロットだったようです。かなり気が弱くて、同僚とも馴染めなくて転職したのだとか。ライラさんが彼と飛行するのは3回目ですが、操縦技術よりも、

「もっと、勇気を持って、」

とか、

「もっと、大胆に、」

など、気持ちの持ち方のアドバイスがほとんどだったりするのでした。確かに、何事にも、繊細さや、慎重さは必要ですが、同時に、気持ちの強さや、大胆さも必要なのではないかと思います。

 なお、ライラさんの操縦するシャトルは利用したゲストの方から、

「とても乗り心地が良かった。」
「振動が少なくて大気圏突入も、全く怖くなかった。」

と高評価を頂いているのでした。一方で、会社の持つ地上基地がスコールで着陸不能になったため、普段は使っていない、十分な誘導設備もない田舎の空港に着陸することになった時も、慌てることなく安全に着陸したということもあったのでした。

「大気圏への突入を開始しました。船外温度上昇中。現在、2,200℃です。」

 副操縦士が報告しました。

「了解。でも、大丈夫よ。姿勢は安定しているから。」

 ライラさん、副操縦士に伝えました。もう何回か経験しているのに、今回もだいぶ緊張しているようです。やはり、怖いのでしょうか。大気圏突入が。

「そんなに緊張してたら保たないわよ。」

 ライラさんが、笑顔を浮かべてアドバイスしました。

「は、はい・・・、なんか緊張してしまって。」

 ライラさん、笑顔のまま、前方を向きました。世の中には緊張感の必要となる作業は数多くあります。だからと言って、緊張してさえいれば上手く出来るというものではないのです。肩の力を抜いて、リラックスする、そんな余裕も必要なのです。

 そういえば、自動車の免許を取った友人から聞いたことがあります。自動車の免許を取るためには教習所に通うのが一般的かと思います。交通規則の座学の講習から始まって、教習所の敷地の中のコースでの運転の練習を経て、仮免許を取ると、晴れて、教習所の外の一般の道路上での教習に移ります。この、路上教習の最中に、隣に座る教官がやたらと雑談をしてくるというのです。その友人は、

「すみません、話してる余裕ないので。」

と断ったそうなのです。そうですよね。車の運転て、信号や標識の確認、歩行者や自転車、バイクなど自分と同じ道路を走る他の車の確認、自分の車の速度の確認や、他にも、確認しないといけないことが満載なのです。とても、教官と世間話などしている暇はないのです。

 ですが、教官曰く。

「実際に自分で車を運転するようになったら、家族や友達を乗せることもあるだろ? そうしたら、その、一緒に乗ってる人と雑談くらいするだろ? 車を運転している時にも、雑談をするくらいの余裕は必要なんだよ。それに、緊張してばかりじゃ、神経が保たなくなるぞ。もちろん、安全に運転しないといけないのは当然だけどな。」

 むむむ。そ、そうですね。仰るとおりです。何事をするにも、目的の作業をするのに精一杯で、余裕が全くないのは、よろしくないのです。

 と、そんな意味でも、ライラさん、副操縦士君にアドバイスしているつもりなのですが、副操縦士君の緊張は解けないようです。

『本人次第というのもあるけれど、どうしたものかしら。』

 ライラさん、心の中で呟きました。

 と、その時。

『バチンッ!』

 操縦室のすぐ後ろの機械室から大きな音がしたのです。そして同時に、操縦室のすべての電源が落ちたのです。どのパネルも照明が消えて真っ暗です。操縦室内の照明まで消えています。

「えっ? 何? どうしたの?」

 ライラさんが叫びました。

「わかりません。すべての装置の電源がダウンしました。操作しても反応ありません。」
「再起動してっ、速く!」

 ライラさん、鋭く指示を出しましたが、副操縦士からは絶望的な返事が返って来ました。

「やってますが、全く反応ありません。」

 シャトルは基本的にはコンピュータ制御で飛行する仕組みになっていました。しかし、肝心のコンピュータまで電源が切れてしまっているのです。

「ダメです! 操縦不能!」

 副操縦士がほとんどパニック状態で叫びました。

「落ちついて。絶対に帰るのよ。」

 ライラさんが叫びました。しかし、電源は回復しません。後になって分かったのですが、この時、操縦室の後ろの機械室にあるメインブレーカーが、切れてしまっていたのです。パーツの劣化が原因でした。

 それまで機器の再起動にかかり切りだったライラさんが、何かに弾かれるように視線を上げました。

「えっ!」

 すぐに、異常に気付きました。

「機首が下がってる。」

 シャトルは大気圏突入の時は、機首を水平よりも上に向けた姿勢で飛行するのです。この姿勢が乱れると、異常な加速やそれに伴う高温によって、最悪の場合には機体が損傷して、シャトルは分解、つまり、流れ星が燃え尽きるように、消滅してしまうのです。

「コンピュータが止まったから・・・、」

 そう呟くなり操縦桿を握り直しました。コンピュータが止まった以上、手動操縦でシャトルの姿勢を制御しなければなりません。幸い、電源がダウンしていても、操縦桿からの操作は可能な設計になっていました。

 しかし。

「お、重い・・・操縦桿が動かない。」

 さらに。

「機首の下がるペースが速くなってる。まずいじゃない。」

 しかし、ライラさん、思考と行動を止めませんでした。

「・・・、諦めないわ!」

 操縦席のコンソールに両足を踏ん張って、渾身の力を込めて操縦桿を引きました。

「・・・、動いて・・・、お願い・・・。」

 操縦桿が僅かずつ動き始めました。ライラさん、歯を食いしばって、操縦桿を引きます。

「機首が・・・、上がってます。」

 正気を取り戻した副操縦士がライラさんに教えました。

「・・・、今の、仰角・・・は?」
「30度、30度です。」
「よし、もう少し・・・。」

 大気圏突入時には、仰角は40度に保たなければなりません。

「・・・、仰角35度、」

 ライラさん、腕がつりそうでした。それでも力を込めて引き続けます。

「・・・、40度!」
「あっ!」

 ライラさん、ハッとしました。あることに気付きました。操縦桿の操作が異常に重い上に、反応が普段の何倍か遅くなっているのです。そのため、操作を止めてもまだ機体が姿勢の変更を続けてしまうのです。

「仰角、45度、まだ上昇中!」
「そんな!」

 ライラさん、今度は、逆に操縦桿を押し始めました。シートの背もたれで踏ん張って力任せに押します。

「・・・、あっ、上昇停止、いま48度・・・、あ、下がり始めました。45度・・・、」

 副操縦士のその声を聞くと、僅かにタイミングをずらして、操縦桿を押すのを止めました。

「お願い、止まって。」

 前方を見つめます。

 果たして、機首の動きが止まりました。

「いま・・・、仰角、40度・・・、よし。」

 ライラさんも副操縦士も力が抜けたように、シートに座り込みました。しかし、休んでいる暇はありません。目を見開いて、前方に見える景色を頼りに、機体の姿勢を監視します。

 少しして、機体を覆っていた炎が消えました。

「よし、」

 ライラさん、再び、岩のように重い操縦桿を押し始めました。今度は機体を水平にしなければならないのです。

「仰角・・・、25度、」

 副操縦士が前方を睨みながら伝えます。

「・・・、15度、」

 ライラさん、僅かに、操縦桿を押す力を緩めました。やや、長い間の後に、副操縦士が伝えました。

「仰角、5度。」

 ライラさん、操縦桿を押すのを止めました。

「止まって・・・!」

 副操縦士も前を見つめています。

「仰角・・・、ゼロ・・・、水平飛行に入りました。」
「よし。」

 ライラさん、僅かですが気持ちに余裕を取り戻すと、窓の外の景色を観察しました。タオルで汗を拭います。コンソールのポケットに入れてあったボトルを取ると何口か飲みました。

 ボトルを戻すと外の景色を見つめました。青い海の部分と、茶色や緑の陸地の部分、海岸線の形を頼りに現在の場所を考えます。

「・・・、左前方、あれって、スカンジナビア半島・・・?」

 ライラさん、何とか気付きました。

「あ、そ、そうです。北から進入してるんですね。」

 地図で見るのとは逆さまに見えているのです。シャトルはスカンジナビア半島を左に見ながらドイツ上空から東欧諸国の上空に入るようです。

「そんなにずれるなんて。」

 副操縦士が驚くのも無理はありません。そもそも、シャトルはアメリカ東海岸にあるホテル運営会社所有の宇宙港に着陸する予定だったのです。

「どうします? 電源が入らないと現在地の確認も出来ないですよ。」

 副操縦士が絶望的な口調で聞いてきました。

「決まってるでしょ。」

 その副操縦士にライラさんは強い口調で返しました。

「何が・・・ですか?」

 副操縦士は相変わらず絶望に満ちた声です。ライラさん、真剣な表情で副操縦士を見つめました。

「絶対に、今夜は家のベッドで寝るんだから。」
「・・・。」

 副操縦士は、全く理解できていないようです。頭を抱えて俯いてしまいました。いえ、いっそのことその方が余計な口を挟まれずに済むかも知れません。

「よおし、」

 ライラさん、前方を睨みました。もうこうなったら、前に見える景色と、限りなく重たい操縦桿と、そして、ライラさん自身の強い意志だけが頼りなのです。

「もう少し西へ・・・、」

 ライラさんが、体を預けるように力をかけて操縦桿を操作します。シャトルの機首がわずかに西寄りに向きを変えました。

「よし、降下速度を少しだけアップ・・・、」

 慎重に操縦桿を動かします。重い上に反応も遅いのです。頼りになるのは自分の勘だけです。

「よし。たぶん、これで・・・。」

 ライラさんも自信はありませんでした。できれば、正面に見えている、ヨーロッパのどこかに着陸したい、ライラさんは漠然と考えていたのです。

 シャトルは降下のペースが上がっていました。地上がぐんぐんと近づいてきます。

「アルプスの手前は厳しそうね。だとすると・・・、」

 ライラさん、先ほどまでは、スイスのレマン湖辺りに降りることが出来ないかと考えていたのでした。しかし、今の降下ペースでは、どうも、厳しそうな気がしてきたのです。もちろん、ライラさんの勘です。何しろシャトルのコンピュータはダウンしていて使えないのです。

 ライラさん、シャトルの進路を、さらに、西寄りに変更しました。シャトルの右側の窓から、遠く、アルプスの峰々が見えます。そして前方には。

「見えた! あそこね。いけそうだわ。」

 前方、まだだいぶ遠いのですが、広い水面が見えてきていました。今の降下ペースなら、ちょうど、着水できそうです。もちろん、ライラさんのパイロットとしての勘です。

 シャトルの高度はどんどん下がっていました。地上の景色がぐんぐん迫ってきています。つい先ほどまで、スカンジナビア半島とヨーロッパ大陸が、まるで地図を眺めているように広がっていたのがウソのようです。

「家、教会、きれいな街並み・・・。」

 シャトルは、眼下になだらかな丘陵地帯を見ながら飛行した後、市街地の上空に入っていました。モスクは見当たらないので、どうやら、中欧か東欧のキリスト教圏の国のようです。

 そうしている間にもシャトルの高度は下がり続けていました。速度の方は、いまだ、かなりの高速です。滑走路への進入速度と比べてもかなり速いです。そのかわり、失速して墜落する心配はなさそうです。

 もうすぐ、あと少しで、シャトルは広い水面上に出られそうです。

「あとちょっとよ。」

 水面、いえ、海面に近づくにつれて、建物も増えていきます。建物の形は様々ですが、色はベージュ色の石造りの壁に赤い屋根。細かな色合いは異なりますが、みな、似たような色をしています。

 一瞬、海岸に沿って伸びる道路が見えました。その、道路沿いに伸びる公園も見えました。そこをジョギングしている男性が、頭上を横切るシャトルを見上げているのも見えました。

 もちろん、ほんの一瞬の光景でした。シャトルはついに見渡す限りの水面上に出ました。

 おそらく、黒海です。

「よおし、いよいよね・・・。」

 ライラさん、深く息を吸い込むと、その息をゆっくりと吐き出しました。

「降りるわよっ!」

 そう呟くと、相変わらず重すぎる操縦桿を操作して機首をやや上向きにしました。速度が少しずつ落ち始めました。高度の下がるペースが速くなりました。

 そして、

 弱いショックを感じました。シャトルの後部が水面に触れたのです。シャトルは水面に航跡を曳きながら飛び続けます。速度は目に見えて下がっていきます。

「止まって・・・、お願い・・・。」

 ライラさんの願いが通じたかどうかは分かりません。しかし、黒海の水平線上に対岸の陸地が見えてきた頃、シャトルはほぼ速度ゼロとなり、水面上を漂うように停止したのです。

「と、止まった・・・。」

 ライラさん、大きくため息をつくと、それまで、握ったまま離すことのなかった操縦桿から手を離しました。そして、シートの背もたれに、目を閉じて、ぐったりともたれ掛かりました。

「と、止まったんですか・・・?」

 それまで、固まったように俯いていた副操縦士が、やっと体を起こすと、外を見渡しました。

「海・・・、大西洋ですか?」

 ライラさん、思わず吹き出してしまいました。

「ふふふふっ。たぶん、黒海だと思うわ。」
「黒海・・・、地中海の隣にある海ですか? そんなところに・・・。」

 ライラさん、少し気持ちが持ち直したのか、シートから立ち上がりました。

「お客様に説明しないと。」

 操縦室の後ろのドアを開けて、客室に入りました。乗客は思いの外落ちついていました。

「みなさん、」

 ライラさん、お客様に向かって話し始めました。

「ご心配をおかけして申し訳ありませんでした。当機は、ホテルから分離して大気圏に突入した直後に機体にトラブルが発生しました。かろうじて、機体の姿勢を維持できて、地上へと降下を続けましたが、予定していたコースからは大きく外れてしまいました。現在当機は、不時着に成功して、みなさま、窓からご覧頂けるように、水面に浮かんでいます。トラブルのためシステムが使えないので詳しい場所は分かりませんが、おそらく、ヨーロッパの東方にある、黒海に着水したものと思われます。この機体は、水に浮かぶように設計されていますので、沈むことはありません。ご安心下さい。これから、ドアを開けますので、みなさまは客室スタッフの指示に従って、救命胴衣を付けてお待ち下さい。何かご質問はありますでしょうか。」

 乗客のみなさん、互いに顔を見合わせました。そして、ひとりの女性のゲストが手を上げました。

「その・・・、救援は、来るんですか?」

 ライラさん、丁寧に答えました。

「現在、当機は通信機も使用不能です。これから、会社に連絡して、救援を依頼します。状況は逐次お伝えしますので、しばらくお待ち頂けないでしょうか。」

 ライラさん、操縦室に戻りました。天井近くのキャビネットにしまってあった自分のカバンを取り出すと、中から個人のケータイを取り出して、電源を入れました。そして、会社の管制ルームに電話しました。今はシャトル内はすべての電源がダウンしているので、外部と通信できるのは、この個人ケータイだけです。

 だいぶ長い間呼び出し音が鳴り続けた後に、やっと、管制ルームのスタッフが出ました。

「はい、管制ルーム。」

 ライラさん、落ちついて話し始めました。

「こちら、シャトル・バタフライ、パイロットのライラです。」
「えっ?」

 電話の向こうで驚いているスタッフの顔が見えるようです。

「ライラ? ほんとにライラなのか? 今どこにいる? シャトルは無事か?」

 電話に出たスタッフは、相当慌てていました。声の後ろで何人もの怒鳴り声が聞こえます。

「シャトルは、機体のトラブルを起こしてすべてのシステムがダウンしました。辛うじて不時着に成功して、今は、たぶん、黒海にいます。お客様と乗員は全員無事です。」

 ライラさんの冷静な口調とは逆に、電話の向こうのスタッフの声は、あり得ないほどに慌てていました。まあ、気持ちは分かりますけどね。

「えっ? こ、黒海? な、なんでそんな、で、お客様は無事なんだな?」
「はい、全員無事です。負傷者もいません。」
「わ、わかった。ちょ、ちょっとこのまま待ってくれ。」

 電話の向こうで、スタッフが他の大勢のスタッフと怒鳴り合っている声が聞こえます。相当混乱しているようです。まあ、当然と言えば当然なのですが。

 あとで聞いた話では、地上の管制ルームは、シャトルが大気圏に突入した直後に、その位置をロストしたのだそうです。アメリカ東海岸から大西洋にかけてのどこかに墜落したのではないかと判断したのだそうです。

 すぐに軍に協力要請が行われて、該当空域に、偵察機が発進。大西洋に展開していた海軍艦艇も加わって捜索が開始されていたのです。なお、マスコミ向けには、シャトルは墜落か、消滅した可能性が高いと、伝えられたため、各メデイアも号外や臨時ニュースで、これを一般の人々に伝え始めたところなのでした。

 そして、不時着から、1時間後、ようやく、近くを通りかかったルーマニアの貨客船が、波間に漂うシャトルを発見。ゴムボートを降ろして、シャトルのお客様と乗員を全員収容してくれたのでした。

 お客様と乗員が全員ゴムボートに乗ったのを確認したライラさんは、開かれていたシャトルのドアを閉めました。そして。

「・・・、ただ事では済まされないわよね。」

 実際、この事故の後、不時着したシャトルの回収と修復の費用を確保できなくて、宇宙ホテルの運営会社が倒産。ライラさんも失業することになります。

 ライラさん、複雑な胸中を抱えながら、ゴムボートに乗り移ったのでした。

 しかし、その一方で、ライラさんの運命のリングは別の方向に回り始めていたのでした。

 1時間と少し前。

「ん? 何だ?」

 ルーマニアの黒海沿岸に建つホテルの1室に、当時まだ防衛大学の教授だった川崎さんは宿泊していました。3日前まで開かれていた日米欧の防衛協力会議に出席していたのです。と言っても、川崎さんに声を掛けた防衛省のお役人の荷物持ちでしたが。

 その会議の最終日に、参加者の交流のために開かれたビュッフェ形式のランチで、川崎さんは、当時、フランス陸軍に所属していたニコラ・パスカルさんと知り合ったのです。互いに話が通じる相手だとわかり、連絡先を交換した時に、川崎さんはニコラさんから、この黒海沿いに建つホテルを勧められたのです。

 外の轟音に気付いた川崎さんは、質素ながらも部屋の外に設けられていたバルコニーに出ると空を見上げました。

「あれかっ! 何だ?」

 東の空に見えていた黒い点は、みるみるうちに近づいて来ました。

「戦闘機ではなさそうだな。もう少し大きな機体だ。高度が下がってるようだが・・・、大丈夫か?」

 川崎さん、一瞬視線を落とした時に気付きました。黒海沿いの道路に面した、ホテルの車寄せ横のヘリポートに、小型のヘリコプターが1機、止められていたのです。

 川崎さん、素早く部屋を出ると、ホテルのフロントにひと言だけ伝えました。

「外のヘリを借りるぞ。」

 フロントの担当者が、その意味を理解したかどうかはわかりません。しかし、川崎さんは、そんなことにお構いなしに、ヘリに乗り込むと、素早くエンジンを始動。離陸すると黒海上に躍り出たのです。

 ちなみに、川崎さんは陸上自衛隊に所属していた時に、ヘリコプターの操縦ライセンスも取っていました。久し振りの操縦でしたが、勘は衰えていませんでした。

「あそこか。」

 前方に問題の飛行物体を発見。もう、海面擦れ擦れで、機体の後部が水面に触れる寸前でした。問題の物体は速度が落ちてきたようで、間もなく、ヘリコプターで、すぐ近くまで追い付くことが出来ました。

「水面に触れたな。」

 飛行物体は海面に航跡を曳きながら飛び続けています。

「不時着か。パイロットの腕は良いようだな。しかし、止まれるのか。」

 しかし、そんな心配は必要ありませんでした。飛行物体はスムーズに減速して、黒海上に停止したのです。川崎さんは、その飛行物体の上空を、大きく弧を描きながら旋回しました。

「一応、通報した方が良いな。」

 川崎さん、一番近いと思われるトルコの警察に状況を通報しました。既に、目撃者から多数の通報を受けていて、沿岸警備隊に救助の手配をしたとのことでした。

 その後、沿岸警備隊よりも先に、通りがかった貨客船が飛行物体の救助を開始。シャトルの左側の主翼上に出て来た乗客がひとりずつゴムボートに乗り移っているのが見えました。そして、機体から最後に出て来た、おそらく乗員が、シャトルのドアを閉めました。

「あれが、パイロットか。・・・女性のようだな。」

 その、最後に出て来た乗員が乗り移ると、ゴムボートはシャトルから離れて、貨客船へと戻りました。川崎さんはそれを見届けるとホテルに戻ったのでした。

「そうか、シャトルのパイロットか・・・。」

 川崎さん、何か思いついたようです。実は、既にこの頃、ノースポール・プロジェクトは発足していて、人類史上で最も画期的な宇宙船、ノースポールの建造も本格的に始まっていたのです。そして、その乗組員の選考も始まっていたのです。

 シャトルのトラブルと不時着はライラさんにとって不運な出来事ではありましたが、運命の別のリングは、回り始めていたのです。

(つづく)

2024/01/07
はとばみなと
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2024/01/07 登録