西暦2054年2月17日。
午前9時。
日高基地、オフィス棟、第3会議室。
「実は、今、ここにいる5人でシーライオンに搭乗しようと思っているのだ。」
川崎さんは少し誇らしげに告げました。
今日は、小杉さんとライラさんがプロジェクトに加わって最初の日なんです。会議室にいたのは、小杉さんとライラさん、川崎さん、そして、鵜の木さんと私です。この5人でシーライオンに乗り組んで、大気圏内ではありますが、初めての長距離試験飛行を行うのです。
「シーライオンはノースポールに搭載する小型の宇宙船なんです。」
全長は約60m、幅は9m、高さは10m。ブリッジ要員は最大5人。通常はノースポールの艦底部係留バースに格納されていて、必要な場合にはノースポールから発進して独立して活動します。ノースポールプロジェクトでは、ノースポールは『巡光艦』に分類されていますが、シーライオンはそれよりもだいぶ小柄なため『巡光艇』と呼ばれることになっています。
ですから、
『宇宙巡光艇シーライオン』
なのです。
シーライオンはノースポールよりもやや先行して建造が進められていました。船体の組み立てと内装工事は先月終了しています。現在は搭載した機器や設備の動作確認と備品の搬入が行われています。
このシーライオンを使って、ノースポールに先だってテスト飛行を行うのです。
何しろ、ノースポールもシーライオンも、『未来の技術』の塊です。もちろん、パーツやシステム単位での試験は十分に行っていて、予定通りの機能と性能を実現できるはずなのですが、やはり、実際に飛行することの出来る宇宙船の形で最終的な確認を行いたいのです。そして、その結果をノースポールにフィードバックしたいのです。
「責任重大じゃないですか。」
小杉さん、プレッシャーを感じてるのかと思ったら、笑顔です。ケーパッドの画面上で指を滑らせています。
「宇宙には行くんですか?」
ライラさんも笑顔で質問しました。
「まずは、大気圏内での試験飛行だ。」
川崎さんがライラさんを諭すように答えました。
「だが、」
小杉さんもライラさんも顔を上げて、正面の席に座る川崎さんを見つめました。川崎さんは手元のケータイを操作しながら言葉を続けました。
「問題がなければ、次の目標は、」
川崎さんの背後のディスプレイに映像が表示されました。
「月だ。」
小杉さんとライラさんが顔を見合わせました。もちろん、期待に満ちた笑顔です。
「我々は月面に軟着陸して、船外活動を行う。つまり、月面に降り立って、月面を歩くのだ。我々自身の足で。」
川崎さん、興奮冷めやらぬ小杉さんとライラさんに向かって、さらに、もうひとつの目標を告げました。
「さらに、我々はシーライオンを使って超光速航行試験を行う。」
「超高速航行試験、ですか?」
小杉さんが聞き直しました。
「いや、『光』の方だ。『超光速』だ。」
小杉さん、少し驚いた表情で腕を組みながら背もたれにもたれ掛かりました。
「そうか、そうですよね。」
そうです。私達の目標は宇宙を自由に旅することなのです。そのためには、光の速度を超える速度を手に入れなければならないのです。
2ヶ月後。
西暦2054年4月25日。
午前11時。
日高基地は未だ雪に覆われていました。
「ドック開放。」
ドック管制室のオペレータが、画面のやや大きめのボタンを叩きました。シーライオン専用の第2ドックの屋根が長手方向に2つに割れて開き始めます。少しずつ空が広がり始めました。
青空です。
春の訪れが遅いここ北海道ではありますが、空は少しずつ春の色に変わっているようです。
「ドック開放完了。」
シーライオンのブリッジにオペレータの報告が響きました。それを聞いた川崎さんが指示を出しました。
「よし、浮上だ。ライラ、慎重に頼む。」
「了解、シーライオン、浮上します。」
ライラさんは操縦桿を握ったまま、軽く右足を踏み込みました。シーライオンがその指示に反応して、ゆっくりと、振動もなく浮上を開始しました。
「・・・5m、・・・10m・・・、」
あまりにもスムーズな、安定した動きです。
ノースポールと同じように、シーライオンにはVMリアクタが搭載されています。船体のほとんどの部分にはドライブパネルが埋め込まれています。
シーライオンは、このVMリアクタで発生させたVMエネルギーを、ドライブパネルに投入して、その結果得られる駆動力で浮上、航行するのです。ですから、船体にはジェットエンジンやロケットエンジンのような噴射口はありません。推進原理が全く異なるので必要ないのです。
「20m。」
小杉さんの席の画面にはシーライオンの三面図がCG映像で表示されています。その横にシーライオンの各システムが出力するメッセージが表示されています。
「シーライオン、全艦異常なし。」
小杉さんも報告しました。
「40m。」
ライラさんは操縦桿のサブコンソールを見つめています。操縦桿に内蔵されるようにディスプレイと操作用のボタンが配置されているのです。ディスプレイにはシーライオンを上から見た図と後方から見た図が表示されています。この映像でシーライオンの現在の姿勢が分かるのです。もちろん、移動方向や速度などの数値も表示されています。
「50m。上昇停止します。」
「よし、現状を維持して待機。」
シーライオンは日高基地の上空50mほどの位置で静止、待機しました。
これから、シーライオンは太平洋を一周するテスト飛行に出発するのです。飛行距離は約31000Km、所要時間は5時間を予定しています。
私の席の端末で着信音が鳴りました。私、今回は通信オペレータも兼任するんです。もちろん、本来の技術部員としての作業もあります。うーん、忙しくなりそうです。
私は画面の通信コンソールのアイコンをタッチしました。
「こちら、地上管制室。」
管制室で指揮を執っているニコラ・パスカルさんです。フランス陸軍出身で、かなり前に日米欧で軍事関係の会議があった際に知り合って以来の仲だそうです。現在は日高基地の管制室の責任者を務めています。
私は通信をメインスクリーンにつなぎました。
「こちらシーライオン、川崎だ。」
「お待たせしました。管制室の追跡チームの準備が出来ました。発進可能です。」
川崎さん、軽く深呼吸しました。
「了解だ。では発進する。」
「お気をつけて。」
川崎さんは、スクリーンに映るニコラさんに向かって敬礼しました。ニコラさんもスクリーンの中で敬礼しています。
川崎さん、右手を降ろすと私達に向かって指示しました。
「シーライオン、発進。」
凜とした声が響きました。
「了解。」
ライラさんが足下のペダルを大きく踏み込みました。静止していたシーライオンは、ゆっくりと前進し始めると、すぐに力強く加速を始めました。
「現在の速度、300。」
「艦内に異常なし。」
シーライオンはすぐに北海道の東の太平洋上に出ました。穏やかにうねる海面を下に見ながら滑るように飛行します。
もちろん、いきなりテスト飛行を開始できたわけではありません。最初はドック内での浮上試験が行われました。浮かんだ高さは僅か5mです。でも、その瞬間を見るために集まった科学者や技術者のみんなからは大きな歓声と拍手が沸きました。ノースポールプロジェクトで研究されていた『未来の技術』の力で、実験用ではない実用の機体が、初めて宙に浮いたのです。その後もしばらくドック内での浮上と姿勢制御のテストを積み重ねて、そして、ようやく、太平洋上での試験飛行を行うステップを迎えたのです。
「現在の速度、マッハ5。」
「艦内、艦外とも異常なし。船体温度も変化は見られません。」
マッハ5は、時速で言うと6120Kmです。東京から日高基地までが約800Kmですので、この間を7分から8分ほどで飛んでしまうスピードです。かつてのアメリカ空軍の主力戦闘機F15の速度がマッハ2.5だそうなので、その倍程度の速度になります。
ひとまず、テスト飛行は予定通りに始まりました。シーライオンのエネルギー源であるVMリアクタも、シーライオンを推進しているドライブパネルも順調に稼働しています。シーライオンのブリッジの張り詰めていた空気は少しずつ解れていきました。
「どうだ、シーライオンの乗り心地は?」
小杉さんが後ろを見上げるように振り返ると、そこに川崎さんが立っていました。
「不思議な感じですよね。マッハ5で飛んでいるはずなのに、エンジンの音も聞こえないし振動もないですから。でも、ものすごい速度で飛んでるんですよね。」
「確かに静かだな。こうして立っていても振動はない。それに比べるとジャンボジェットは離陸から着陸まで、絶えず騒音に包まれている感じだな。」
飛行している船内が静かなのも振動がないのもドライブパネルにより駆動されているからなんです。これまでの飛行機とかロケットとは根本的に違う仕組みで飛んでいるからなのです。
川崎さん、今度はライラさんに尋ねました。
「操縦している感じはどうだ?」
「前に乗っていたシャトルとか、ジェット機とは全然違いますね。今まではエンジンの音とか振動で感覚的に掴んでいた情報が全くなくなるので、計器やシステムの出してくれる情報がとても重要になると思います。」
「なるほど。」
川崎さん、考える表情です。駆動システムが根本的に異なるということは、必要とされる操縦技術も根本的に変わってしまうのです。
「確かに、最初は苦労するかもしれない。しかし、これまでのシステムとは比べものにならないほど性能が上がっていることも事実なのだ。それを何とか使いこなすことが出来ないか取り組んでもらえないだろうか。」
川崎さん、珍しく神妙な面持ちです。ですがライラさんは笑顔です。やる気満々のようです。
「もちろんです。」
「頼むよ。」
川崎さん、いつもの鋭い笑顔に戻りました。
テスト飛行のコースですが、太平洋を一周するコースを飛びます。シーライオンは日高基地を出発して太平洋に出ると進路を北にとりました。今は北太平洋のアリューシャン列島にあるキスカ島の南方を目指して飛行中です。そこで南東に進路変更して、東部太平洋を目指します。アメリカ西海岸の遥か沖合を通り抜けて南米のチリ沖を目指します。そこで西寄りに転進、南極海の手前で今度は北西に進路を変えます。その後、ニュージーランドとパプアニューギニアの東方海上を通過して、再び日本を目指して、日高基地に戻る予定です。全行程で約3万1000Km。平均速度マッハ5で、約5時間を予定しています。
「なんか、出発する時はかなり緊張したけど、思ってた以上に順調だね。」
小杉さん、だいぶリラックスした表情です。
「そうね。操縦系も順調ね。」
ライラさんも余裕が出てきたようです。油断は禁物ですが、緊張しすぎていては神経が保ちません。やはり、余裕は必要です。私としては、お2人がリラックスできるほどにシステムが順調なので、一安心といったところです。
シーライオンは飛び続けていました。見えるのは一面海です。どこまでも続く青い海、太平洋。マッハ5の速度で飛んでいるというのに、まるで太平洋の真ん中で止まっているようです。
「もしかして、」
小杉さんが呟きました。
「どうかしたの?」
それに気が付いたライラさんが尋ねました。
「うん、もしかしたら、宇宙でもこんな感じなのかなと思って。」
小杉さん、すごい想像力です。私も気が付きませんでした。でも、小杉さんの想像通りのような気がします。たとえ、ノースポールやシーライオンが光を超えるスピードで飛んだとしても、宇宙は無限に広いのです。たぶん、宇宙飛行のほとんどの時間は、無数の星が輝く中で止まっているかのような時間になるように思います。無限に広がる大宇宙。まさにその通りの展開になるのでしょうか。
「前方にキスカ島を確認。距離、500。」
「進路変更、南東に向かいます。」
ライラさん、操縦桿を僅かに右に切りました。シーライオンが大きく弧を描くように進路を変更し始めました。周囲に見える海面が右に傾いています。
「進路変更完了。西海岸に向かいます。」
周囲は相変わらず海だけです。ところどころに雲は浮かんでいますが、他には海しか見えません。広いですよね、太平洋。
「船とか飛行機とも全然出会わないよね。」
もちろん、一般の船や飛行機の航路は避けてコースを決めたので、私達だけというのは想定通りなのです。
「サンフランシスコまで4000Km。」
ライラさんが報告しました。
川崎さん、その報告を聞くと左手の腕時計を確認しました。
「よし、そろそろ食事にしよう。不動君、準備を頼む。」
「はい。」
実は、シーライオンには普通の家と同じキッチンがあるんです。そして、乗組員全員で集まって食事の出来る食堂もあります。最大で1ヶ月程度は単独で宇宙空間で活動できるように用意されているのです。
ただ、今回はほんの数時間の飛行なのでキッチンも食堂も使わないことにしました。これから食べるランチも、日高基地で積み込んだおにぎりとハンバーガー、そして、飲物もポットで積み込みました。早速、おにぎりを電子レンジで温めました。
「みなさん、準備できました。」
私は、ワゴンを押してブリッジに戻りました。
「よし、小杉と不動君、先に済ませてくれ。」
「はい。」
「了解です。じゃ、お先に。」
小杉さん、隣のライラさんに伝えました。
「どうぞ。」
ワゴンからおにぎりのパックを取ると、席で食事です。
「そういえば、」
小杉さん、昆布のおにぎりを食べながら話し始めました。
「ノースポールには新田夫妻が乗り込むって本当なんですか?」
川崎さん、お茶を飲んでいます。
「うん、元々そのためにオファーしたんだが、実は、反対意見も出ていてな。」
そうなんです。ノースポールの艦内食堂の予行演習のつもりで、日高基地の食堂を担当してもらったら、基地の他のメンバーから人気が出過ぎてしまったんです。まあ、嬉しい誤算なんですが。
「でも、新田さん達はノースポールに乗る気満々みたいですね。」
「うん、それだけが頼りなんだな。今のところ。」
とは言うものの、反対意見にも答えなければいけないということになって、新田さんの紹介で、日高基地の新しい食堂担当がやっと決まったんです。某有名ホテルのメインダイニングに務めている、新田さんの後輩なんです。いやいや、この方も有名で、基地では早くも評判になってるんです。ノースポールに乗り組む予定のメンバーからは、それはそれで羨ましいという意見もあったりして。
「食事は、人が生きて行く上で一番基本的な行為だからな。」
そうなんです。でも、ノースポール・プロジェクトの食事論争もやっと収まりそうで、良かったです。
「じゃあ、交代しようか。」
食事を終えた小杉さんがライラさんに言いました。
「じゃあ、お願いね。」
ライラさんが操縦席から立ち上がると私の席の後ろにあるワゴンに食事を取りに来ました。操縦席には小杉さんが座りました。この光景、なかなか見ることが出来ないですよね。なんか、違和感ありありです。
「ねえ、ライラ、」
操縦席の小杉さんが何か聞こうとしてます。
「なに?」
「操縦桿、握ってもいいかな?」
おっ、小杉さん、パイロットになるつもりとか?
ちなみに、ご安心を。シーライオンにはオートパイロット機能が搭載されていますので。操縦桿のサブコンソールにもちゃんと『AUTO』の表示が出ています。
ライラさんがハンバーガーの包みを開きながら答えました。
「変な操作しないでよ。オートパイロット、切れちゃうから。」
オートパイロット中も操縦桿の操作は受け付けられるのです。そして、オートパイロットの制御を越えて操縦桿を操作すると手動操縦に戻ってしまうのです。
「うん、大丈夫。この間、僕も教わったし。」
これは、冗談ではなく、実は小杉さんはノースポールとシーライオンの操縦研修も受けているのです。確か、シミュレータ講習も受けたはずです。ただ、実際に操縦桿を握るのは今日が初めてです。
「へー、すごいや。」
小杉さん、操縦桿を握ったまま、興味津々な様子でサブコンソールの表示や、その奥にあるメインパネルの表示を見たりしています。
それを見ていたライラさん、半分ほど食べたハンバーガーを持ったまま前の方へと歩き始めました。
「じゃあ、私も座ろうかしら。」
そう言うと、普段は小杉さんが座る統括席に座ったのでした。
「へー、少し左に移っただけなのに、だいぶ景色が変わるのね。」
ライラさんはモグモグとハンバーガーを食べながら統括席のコンソールを観察し始めました。
「ふーん、小杉はこんな画面を見てるんだ。」
そのライラさんに小杉さんが言いました。
「火器管制画面だけは気を付けてね。」
「もちろんよ。」
火器管制画面。シーライオンに搭載されている主砲のVMレーザー砲を撃つことの出来る画面です。
「うん、なかなかレアな眺めだな。」
川崎さんが呟きました。何しろ、小杉さんとライラさんがそれぞれ逆の位置に座ってるのですから。そう見られるものではありません。
「あー、ごちそうさま。小杉、戻っていいかしら?」
「うん、戻ろうか。」
そんなわけで、珍しい光景も終了です。
太平洋は相変わらず平和でした。天気も良く空も海も真っ青です。その青い世界の中をシーライオンが白い点のように浮かんでいます。なんか、日常の面倒なことや嫌なことも全部忘れてしまいそうな、どこか別世界にいるかのような時間が流れました。
「あと5分で南米沖に達します。」
と、ライラさんが報告した途端、
「・・・、んー、やばいぞ、やばい。」
小杉さんが急に立ち上がって両手を上に伸ばしたり左右に開いたりし始めました。
「どうしたの? 急に。」
ライラさんが不思議そうな顔つきで尋ねました。
「えっとね、ちょっと・・・。」
小杉さん、なんかはっきり答えません。
「ちょっとどうしたの?」
ライラさんがさらに突っ込みます。
「いや、あんまり静かで揺れもないもんだから、さ・・・。」
「まさか、居眠りじゃないでしょうね?」
ハハハッ、そういうことですね。
「んーと、えーと・・・、ごめん。」
小杉さん、白状しました。
「で、でもさ、ほんの一瞬、一瞬だから。」
「だけど、統括部長がそんなでいいのかしら?」
ライラさん、厳しい追及です。でも、顔は笑っています。
「うん、いや、だから、ごめんね・・・、って、どうしたの? 不動さん。」
やっと気付いてもらえました。私、右手の人差し指を口に当ててアピールしてたんです。
「えっと、静かにってこと?」
私は右手で鵜の木さんを、そして、左手で川崎さんを指さしました。
「あっ、あれっ?」
小杉さんもライラさんも笑みを浮かべました。
「2人とも、」
「寝ちゃったのね?」
鵜の木さんも川崎さんも目を閉じて腕を組んだまま頭をこくりこくりとさせていました。小杉さんが小声で言いました。
「なんか、ドライブに行くとこういうことあるよね。みんな寝ちゃうんだよね。運転してる1人だけ起きてて。」
「まあ、そうね。」
確かに、ドライブあるあるだと思います。私はどちらかというと眠らせてもらう方だったのですが。
「乗り心地が良すぎるという証明みたいなものかしら。」
その時、私の端末で着信音が鳴りました。
「あっ、まずいっ!」
急いで、通信コンソールに切り替えると着信ボタンを押しました。
「こちら日高基地、ニコラです。」
私、小声で応答しました。
「えっと、不動です。川崎さんですよね? でも、いま・・・。」
私、ブリッジのカメラのスイッチを入れました。これで、ニコラさんの画面にブリッジの様子が映ったはずです。
「なるほど。よく眠っているようだな。」
ニコラさんも小声で話してくれてます。
「なら、急ぎではないので後にするよ。」
「はい、すみません。」
通信は切れました。
2人ともまだ寝てます。まあ、実際問題、みんな激務なんですけどね。
シーライオンの試験飛行は全く問題もなく順調でした。
「現在、南太平洋を西進中。もうすぐパプアニューギニアの沖ね。」
ライラさんが小声で報告すると小杉さんも小声で答えました。
「うん、了解。」
シーライオンのテスト飛行ももう後半です。ほんと、順調です。
「ん、ん、んーっ?」
うなり声のような寝言のような声を上げて、川崎さんが目を覚ましました。
「いかん、眠ってしまったか。」
「おはようございます。」
小杉さんが、笑いながら、ちょっとわざとらしく挨拶しました。
「そうか、いまどの辺りだ?」
腕時計を見ながら尋ねました。
「いま、パプアニューギニアの北です。北西方向に飛行してます。」
「そうか、順調だな。良かった。」
わたし、川崎さんの方を向くと尋ねました。
「コーヒー、入れましょうか?」
「そうだな、頼んでも良いか?」
「はい。」
私、そう答えるとブリッジを出ました。狭いホールを挟んだ右舷側に給湯室があります。そこのシンクの頭上に作り付けられた棚を開けるとしまっておいた道具を取り出しました。コーヒーを入れる道具です。私、コーヒーを豆を挽いて入れるのが大好きなんです。それで、シーライオンにも装備のひとつとして道具一式を積んだのです。まあ、こっそり、なんですけどね。ちゃんとみんなの分も入れるので、内緒にしといて下さい。
まずはお湯を沸かし始めます。ポットに水を注いでフタを閉じてコンロの上に載せます。ちなみに、シーライオンの船内は火気厳禁です。宇宙船という閉鎖された空間なので。なのでコンロはIH式です。水とお湯は自由に使うことが出来ます。実は、水はもちろん、船内で私達が呼吸する空気もVMリアクタから無尽蔵に得られるのです。VMリアクタは、不安定な状態で稼動させると、エネルギーの発生効率が低下します。そして、ノイズとして、様々な物質を発生させるのです。例えば、酸素や水素、炭素などの基本的な物質がノイズとして発生するのです。それらを使って呼吸用の空気や水を生成するのです。ただし、鉄のような重い物質はまだ発生させることが出来ません。それでも、十分に画期的なのですが。
「えっと、こんなもんかな。」
豆を取り分けると、ハンドルをゆっくりと回して挽き始めました。ガリガリと音がします。豆が砕かれていく感触を手に感じます。こうして、自分の手で回して動かす機械って、なんか、好きです。だって、世の中のほとんどの機械は電動じゃないですか。モーターで回すのです。勝手に。でも、手で動かす機械は違います。自分の手の加減で、回すスピードや強さを無限に細かく調整できるんです。そんなアナログなところが好きなんです。
「よし。」
次にサーバーにフィルターをセットすると、ミルで挽いたコーヒーの粉を入れます。コーヒーの良い香りが漂います。
「あっ、ちょうどだ。」
いいタイミングでお湯が沸きました。銀色の首の長いポットを持ちます。そして。深呼吸をするとゆっくりとコーヒー豆の粉ののるフィルターの上に注ぎます。
ブリッジ。
「あれっ、何か匂いがするような、」
小杉さんです。さすが、鼻も良いんですね。それを聞いたライラさんも匂いを嗅ぐ仕草をしています。
「そうね、何かしら?」
ライラさん、笑みを浮かべてそう言いました。匂いの正体が分かったようです。一方小杉さん、最初に気付いたものの、匂いの正体には気付いていないようです。
「どうした、小杉?」
川崎さんがわざとらしく尋ねました。
「なんか、匂いませんか? なんか、焦げ臭いような気が。」
それは大変です、本当なら。川崎さん、鋭い笑顔のまま小杉さんに指示しました。
「すぐに点検しろ。どこかの回路が焼け焦げたのかもしれんぞ。」
なんか、あからさまにわざとらしいんですが。小杉さん、あわててコンソールで点検を始めました。えっと、大丈夫なんですが、小杉さんてば。
私、ちょうどブリッジに戻りました。
「みなさん、一息つきませんか?」
小杉さんが、やられた、という顔で私を見ていました。
「それだったんですね・・・。ひどいなあ。」
「ハッハッハッ、まあそう言うな。」
小杉さん、ライラさんに一声かけながら立ち上がりました。
「一緒にもらってくるよ。」
「ありがとう、ブラックでお願い。」
ランチな時に説明したようにシーライオンには自動操縦の機能があります。ですから、コーヒーを取りに行くくらいなら席を外しても大丈夫なんですけどね。
「うん、いい香りだ。」
最初にカップを手にした川崎さんが言いました。
「シーライオンでこんなに美味しいコーヒーを飲めるとは。楽しみがあっていいな。」
「あの、」
私、川崎さんに聞いてみました。
「ノースポールにもコーヒーの道具を積もうと思ってるんですが。」
「そうか、それは楽しみだな。頼むよ。」
やりました! 川崎さんのお許しをもらいました。実はもう準備してあって、積み込むだけなんですけどね。
シーライオンは北西に転進していました。ニュージーランド、オーストラリア、パプアニューギニアの北東側、珊瑚海とソロモン海を左舷の彼方に見ながら飛行します。このまま直進すれば日本です。
「フィリピン海に入りました。」
ライラさんが報告しました。
川崎さん、ゆっくり立ち上がると全員に指示しました。
「聞いてくれ。ここまで非常に順調に来たわけだが、まだ、日高基地に着いたわけではない。従って、まだ安心できない。各自、今一度気を引き締めてくれ。」
和らいだ雰囲気だったブリッジ内は再び緊張した空気に包まれました。川崎さんは続けて指示を出しました。
「小杉、」
「はい。」
「艦内各システムを点検。念のためだ。直ちに開始してくれ。」
「了解です。」
次はライラさんを呼びました。
「進路と速度を確認。日本付近は民間機の航路もあるからな。細心の注意を払ってくれ。」
「はい。」
私もレーダー画面を開いて監視を始めました。
確かに、距離は離れていますが、民間機の反応がいくつかあります。
太平洋はとても静かでした。海は凪ぎ、うねりも僅かに見えるだけです。陽は西に傾き始めていました。その光を受けて輝く海面を眼下に見ながらシーライオンは進みました。
「進路、右10度。」
シーライオンは緩いカーブを描くように右に進みます。まもなく、日高基地です。
「日高基地まで5分を切りました。」
「減速します。」
進路の遠くに、襟裳岬が見えてきました。
私の端末でアラームが発報しました。急いで確認しました。
「右舷から飛行物体、識別信号を出してます。V‐25B、政府専用機です。」
右舷の遠くに機影が見え始めました。通称、オスプレイ2です。総理大臣や各大臣などの移動専用に導入された政府専用機です。
「古淵さんと稲田さんか、今日はだいぶ早いようだが。」
川崎さんは立ち上がると右舷の窓際に立ちました。オスプレイは50mほどの距離を保って並んで飛行しています。
「今日はゲストが多いようだな。うん、珍しい顔も見えるな。」
オスプレイの窓から、稲田さんが手を振ってます。私も手を振って応えました。
日高基地はもう目の前です。待ちかねていたのでしょうか。基地から通信が入りました。ニコラさんです。
「ご苦労様でした、シーライオンのみなさん。」
安心した表情です。私達はあまりにも順調なシーライオンに少々寛ぎすぎな試験飛行でしたので、もしかしたら、基地のスタッフの方がヤキモキしたり緊張したりだったのかもしれません。
川崎さん、余裕の表情で応えました。
「ありがとう。我々の方はむしろ快適すぎるくらいの試験飛行だった。だが、ドックに着陸して屋根が閉まるまでがテスト飛行だからな。油断禁物だ。」
「そうですね。無事の帰還をお待ちしています。」
「うん、ありがとう。では、続きは基地に着いてから。」
「はい。」
川崎さんとニコラさんが話している間にもシーライオンは大きく減速しながら襟裳岬を通過していました。北海道の陸地に入ります。
「異常なし。このまま進みます。」
ライラさん、基地の誘導システムに従って慎重にアプローチしました。そして、ついに、シーライオンは日高基地の第2格納庫上空に達しました。既に速度ゼロです。
「回頭、左12度。」
シーライオンがゆっくりと着陸位置を合わせます。
「回頭完了。位置合わせ良し。」
ライラさんが報告しました。
「こちらでも確認した。降下してくれ。」
ドックの管制室から着陸許可が出ました。
「了解。降下開始します。」
シーライオンはゆっくりと高度を下げ始めました。右舷側の船体が夕陽を受けて赤く輝いています。
「高度、30・・・、20・・・、」
「姿勢良好、そのまま降りてくれ。」
「10、9、8、7、6、5・・・、着陸。」
ライラさん、すぐに速度と高度を確認します。
「速度、高度共にゼロを確認。」
「こちらも確認。おかえり、シーライオン。」
小杉さん、後ろを振り向いて川崎さんに報告しました。
「シーライオン、日高基地に着陸完了。全艦異常なしです。」
川崎さん、シートから立ち上がると全員に伝えました。
「了解した。みんな、ごくろうだったな。」
川崎さん、ホッとため息をつきました。そして、申し訳なさそうに伝えました。
「すまないが、先に降りさせてくれ。管制室に顔を出してくる。諸君も片付けが済み次第、休養を取ってくれ。」
川崎さんはそう言い残すと、一足先にブリッジから出て行きました。川崎さんがブリッジから出て行くのを見送った小杉さんは、シートに深く座り直すと、大きくため息をつきました。
「お疲れ様。」
その声に右手に振り向くと、ライラさんが右手を出していました。小杉さん笑顔になると右手を伸ばすとライラさんの手を握りました。
「ライラこそ、お疲れ様。」
ひとまず、シーライオンも、そして、私達乗組員も、何事もなく無事に基地に戻ったのです。初めてのテスト飛行を終えて、またひとつ、ステップを登ったのです。
「次はいよいよ、宇宙か。」
小杉さんはシートにゆったりともたれ掛かりました。
「そうね。私達、月に行くのね。」
ライラさんも荷物を抱えたままシートに身を委ねました。
私もドキドキしてきました。
月。
いよいよ私達、月に行くんです。
宇宙に行くんです。
どんな場所なんでしょう。
さすがに、ウサギはいないと思いますが。
・・・って、あれ?
ふと、右隣の席を見ると、基地に着いたというのに、鵜の木さん、まだ爆睡中です。
「鵜の木さん、鵜の木さん、」
あちゃ、全然起きません。
「鵜の木さん、鵜の木さん、」
私、鵜の木さんの左肩に手を掛けると揺すりながら呼びました。
「ん、あ、あれっ? ごめん、寝ちゃったんだ。んーっ、いまどの辺り?」
鵜の木さんてば、ほんとに寝込んでたみたいです。
「もう着いちゃいましたよ。」
私がそう教えると、
「えっ? どこ?」
「日高基地にですよ。よく寝てましたよね。」
鵜の木さん、目を丸くしました。
「そ、そうなんだ。」
ふふふっ。まあ、普段、激務ですから。仕方ないですよね。
「ごめん、不動さん。あっ、データ取ってないや。まずいな・・・。」
鵜の木さん、慌てて端末に向かいました。
「大丈夫です。私が取っておきました。」
「そうなんだ、・・・ごめん。」
さすがにばつが悪そうです、鵜の木さん。
まあ、今日の試験飛行も無事終わったし、とりあえず結果オーライと言ったところでしょうか。
(つづく)